軽やかな夢が重たい現実を突き破る~BUCK-TICK『異空』感想~
力が無いからアイディアや奇抜さに逃げるのではない。
有り余った力でアイディアを出し尽くし、限界突破している。
BUCK-TICKはそういうバンドだと、最新アルバム『異空』を聴いて実感した。
美しい浮遊感のあるインストがあり、逃げ場の無い歌詞とヘヴィ目のサウンドがある。
軽快さがある一方、勢いと攻めで押し切る、デジタル混じりのロックがあり、退廃のスローテンポ曲や、珠玉のバラードもある。
歌詞もサウンドと引き立て合い、切なさや悲しみ、現実の重たさや愚かさ、そして現実逃避に踊る人間の滑稽さが、景色、夢、街、異国を連想させる美しい言葉とともに散りばめられている。
上に挙げた要素は全て、2020年の前作『ABRACADABRA』にもある。私からすれば、前作と『異空』にジャンル的な違いは無いように思える。
しかし前作以上にメロディが耳に残るし、ギターソロにも感情を引き立てられる。「さよならシェルター」の前奏や「名も無きわたし」のソロは美し過ぎて泣けてしまう。ベースとドラムも良い意味でシンプルに聴こえ、サウンドの一体感に脈を与えている。前作も一体感は十分あったはずだが。
前作はコロナという現実の最中リリースされたが、今作は戦争(とその情報の濁流)という現実の最中にリリースされた。前作の時以上の、現実の切実さがクオリティに繋がっているのだろうか。だとすれば悲しいことである。
理由はともあれ、とにかく冒頭に書いたことに戻っていく。
仮に「売れ線のポップスだけ作ったアルバムをお願い」「メタル風のをお願い」「アコースティック系前面で」等、BUCK-TICKに理不尽な条件を課しても、他の追随を許さない作品を作るだろう。しかしそれではBUCK-TICKのアイデンティティは満たされない。
それでオリジナリティとクオリティが高度に統一された作品が毎度作られ、前作の壁を越えてくいくのだ。
(1)「軽さ」と「重さ」を巡って
『異空』で重要なのは「軽さ」と「重さ」の共存と衝突では無いかと思う。それはBUCK-TICKが35年の歴史の中で、徐々に培ってきた要素だ。どういうことか。
「軽さ」というのは初期、それこそデビュー当時くらいからあった要素だと思う。非現実や夢、幻、デカダン、「どうせ私も世界も駄目なんだから逃げて踊りましょう」という現実逃避。それらを支える軽快なリズムとサウンド。初期の櫻井敦司氏の声は、金属的な軽さのある不思議な声だったし、歌唱力が格段に上がってからもテクニック的な面を活かしたりして、ポップス的な曲やダンサンブルなアレンジとも相性が良かった。
一方「重さ」というのは、行き場の無い絶望の叫び。不安。それらに実感を与える圧倒的なシャウトと歌唱力。ノイズや、空気を切り裂くギターサウンド。そして奇抜なギターに媚びない安定のリズム隊。こちらはデビューしてから徐々に蓄えられてきて『狂った太陽』で全開になった要素だと思う。
繰り返しになるが『異空』では上に挙げた二要素が共存して、繋がることができずに衝突している。
(2)「軽さ」と「重さ」は何故繋がれないのか
「さよならシェルター」の前奏後半では、戦場を想起させるような重たいストリングスの上を、雨を想起させるキーボードと思われる音や、美しいクリーントーンが鳴る。そしてデジタル風のリズムやベース、ドラムが遠慮がちに入り、優しい櫻井氏のボーカルに繋がっていく。
絶妙なバランスだが、ストリングスと他のサウンドがそれぞれ独立している印象も強く受ける。
歌詞にしても、「地下室」「誰かが僕らを/殺しに来るよ」「わたしは誰かを/殺しに行くの」等、容赦無い現実がある一方、それでも、おとぎ話のような夢を抱き続ける。
しかし「今夜/地球はまるで/美しい流れ星/綺麗だ」とあるように、もしかしたら夢叶わぬまま、地球を外から見渡せる場所(空のはるか彼方)へ旅立ってしまったのではないか、とも思えてしまう。
『異空』の曲には全体的に死や別れを想起させるものが多いし、その上を夢や現実逃避が踊る曲も複数ある。「戦争も無く、子供達も幸せで、変えたいと思ったことは一つ一つ変えられる」のが世界の現実なら、抱くだけ虚しい夢も現実逃避も必要無いはずだ。
しかし容赦無い現実は多くの人を徹底的に疎外し、世界の危険な隅に追いやる。それこそが「軽さ」(夢)と「重さ」(現実)が繋がれない要因だろう。
そのことを直視し続けるBUCK-TICKの徹底的なリアリズムが『異空』には反映されている。
(3)「軽さ」と「重さ」を縫い合わせる~現実を直視すること~
私は櫻井氏の苦労多き人生を、最近刊行された『音楽と人』やその増刊号で初めて知った。幼少期の父から母への暴力。母に「家から兄と出て行っていい」と言ったら「そんなことできない」と叱られた悲しき思い出。PTSDとHSP。
冒頭から「逃げられない/俺はもう何処へも」と歌う「SCARECROW」。この曲の途中に出てくる、「影法師/神隠し/神殺し/誰か!」は、行き場が無い中で神なんているのか(つまり正しいことなんてあるのか)途方に暮れながら、「誰か」と助けを呼んでいるのではないか。
それは幼少期から巨大な不安と生きてきた櫻井氏の魂の叫びなのかもしれない。
一方で彼には、繊細なだけ、現実を直視し抜く強さもある。
「SCARECROW」で歌われる何が正しいのか、誰が敵か味方かも分からない世界の不安を拭い去るためには、「この世は/夢ね」(「愛のハレム」)と居直る方法がある。逃げてしまうのだ。
しかし、不安や絶望を抱える自分がいるという事は、自分をそういう状態にさせている現実も確実に存在する。現実の中で何が嘘かまことかは分からなくても、それだけは確実だと、櫻井氏は誰よりも理解しているはずだ。
「Campanella 花束を君に」では、子供目線の歌で、戦場の残酷な現実が描写される。
印象的なのは「兵隊さん/マシンガン/ミサイル/”花束”」「子供たち/おとうさん/おかあさん/”花束”」という箇所だ。悲しみの中であらゆるものに花束を添えて平和を願う、という解釈もできるだろう。
しかし傷付いた子供も、そして繊細な櫻井氏も、願うだけで平和は来ないことを痛いほど分かっている。
「兵士やマシンガンやミサイルというものを見ないことにはせずに、世界の中に実際にあるもの、もしくはあってもおかしくはないものとして直視しよう。無くなってほしいものも、無くなってほしくないものも、どこかで繋がっている。そのことを理解することから、世界を変える一歩になる」
しかし「現実を見ろ」と強く言うだけでは残酷で、突き放すようだ。せめて優しいフィルターを添えて見てほしい。そのための”花束”なのではないか。
前向きな浮遊感のスローテンポに、切なげな歌詞が乗る「無限ループ」でも「君の/夢見た」という「わたし」が、やがては「あなたの/夢で/眠る」。そこでも「君」の夢を見る。「君」はもしかしたら生きていないのかもしれない。
そして(多分「君」とは別な人である)「あなた」の夢で眠る「わたし」も過去の人になろうとしているのかもしれない。
そのようにして、亡くなった人を思い出す誰かがいて、その誰かもやがて亡くなり、別な人に思い出され……という「無限ループ」が続いていく。そんな歌ではないか。そして死も別れも、記憶が巡ることも現実のことで、音楽と詞のマジックで、切ないはずのことを、前向きに直視しているのだと思う。
あらゆる現実から目を背けずそっと”花束”を添えること。夢と現実。そして「軽さ」と「重さ」。分離し合っていたはずのもの同士が、櫻井氏の中で、一つの世界の中に存在することが分かったのだ。
(4)夢を押しつぶす現実~「軽さ」と「重さ」の望まれぬ統一~
しかし、一つの世界の中にある「軽さ」(夢)と「重さ」(現実)が仲良く共存することは困難である。「世界は俺のものだ」と現実が叫び、鉛色の波が儚い夢を飲み込もうとする。一方的な「重さ」による「軽さ」の統一。
「お母さんの夢を?/夢を犯しました/胸/搔きむしる」「お父さんの夢を?/夢も殺しました/日曜/雨/模様」と歌う悲しげなスローテンポ曲「ヒズミ」。自らも周囲もそして街も狂っていき、夢も潰れ、命すら閉ざす。
戦争や歪んだ家庭環境、その他無数の悲劇により夢とともに潰えた命。
「愛のハレム」のように老婆から「おまえはそうさ/夢や/幻」「鏡よ/鏡」「あたしもそうさ」と笑われ、「死者達と踊れ/さあ踊れ」となるしかないのか。夢を抱いたまま死ぬしかないのか。
(5)現実を夢にするため咲き乱れる生命
儚い命だからこそ無限に咲き乱れ、命同士も繋がり、この重い現実も変えられるかもしれない。終盤のバラード曲「名も無きわたし」はそんなことを伝えたいように感じる。
前作『ABRACADABRA』の最後の曲「忘却」も静謐な美しいバラードだった。「儚くてありふれた日々こそが、かけがえないの無い日々だった」という「忘却」のメッセージから「名も無きわたし」では更に一歩踏み込んでいる。
「一雫/雨を/一雫/ください/一雫/愛を/一雫/ください」という冒頭。物理的に存在する「雨」と観念である「愛」が同等に描かれる。自然や風景を好む櫻井氏らしい。
次に「名も/無い/わたしは/あなたと/出会いました/名も/無い/わたしにも/蝶や/風や/夢が」と歌う。他者との出会いが「名も無いわたし」の夢に繋がり、それは自然を媒介している。
そして曲はサビに入り「狂い咲く/花たちよ/今は/咲き乱れよ/狂い咲く/命共/乱れ/乱れ/乱れ」と力強い願いが込められる。今だけでも、儚くとも、夢を抱いた生命たちが生きるように願っている。いや、確信している。そこにはもう、「軽さ」と「重さ」の繋がれ無さも、飲み込んでくる「重さ」を前に立ちすくむ弱さも無い。
しかし、戦争という現実と儚い夢を歌ったアルバム前半の「さよならシェルター」でも「今夜/静かに眠る/あなたに会いに行く/必ず/あの/シェルターで/待っていて」と歌われている。儚い願いに敢えて「必ず」という表現を付けたのは、重い現実に疎外され、飲み込まれるような儚い存在でも、いやだからこそ、胸中に宿る確信のような願いは忘れられてはいけないし、例え叶わなくとも、人と世界を伝い広がっていくという考えがあったのではないか。
「名も無きわたし」に戻ろう。曲の後半のメッセージは感動的である。「ありがとう/愛を/陽だまりの/日々を/一輪の/花を/髪飾り/君に」という二番の歌詞は、観念的なはずの愛が、既に過ぎ去った日々を通し、存在したことを示す。
しかし別れは来る。「名も/無い/わたしに/あなたと/お別れ来た」と。そして「名も/無い/わたしにも/赤や/黄の/夢が」と歌う。花のように色が付いた夢。もはや観念では無く、過ぎ去った愛を通過することで、具体的に、現実へ描ける夢を抱くようになったのだろう。
そして再び花や命が咲き乱れる様を歌い、曲は終わる。
それにしても「名も無きわたし」の演奏は素晴らしい。『異空』の集大成とも言える。力強いドラムの土台に脈を与えるベース、淡々としたギター、美しいギター(ギターソロの後半はあの名曲「さくら」を彷彿とさせた)
そして優しく歌い出し、最後は高らかに絶叫するボーカル。未来への余韻を残すようなエンディングも見事で、最後のインスト「QUANTUM Ⅱ」へ絶妙なバトンを渡している。
自分の夢を現実に吹き込むことも、あらゆる存在の声に耳を傾けることも、まだまだこれからである。