~「壁」の内側を丁寧に描く~映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」感想
いきなりなのだが、パンフレットや公式サイト等に書かれた(もちろん日本語の)ストーリー紹介に違和感を持った。(しかしこの違和感を「問い」にしてこの素晴らしい映画を見ることで、深い学びを得たと感じる)
まとめてしまえば、主旨はこうだ。
「社会主義下の東独の学生たちが1956年に、東独と同じくソ連の影響下だったハンガリー革命の映像を見る。犠牲になったハンガリー民衆への『純粋な』共感に基づき、学生たちは授業の最初に黙とうを実施するが、当局には政治的な意図を疑われ、やがて国家への反逆を問われ……」
上のような書き方の紹介が多かった。間違いはない。しかし、「純粋な」とは何か、という疑問が生まれる。上の書き方だと非政治的=純粋という見方もできてしまう。黙とうを実施した東独の学生たちは非政治的だったと。ノンポリだったと。しかし政治的意図があったら純粋ではなくなるのか。当のハンガリー革命のように、ソ連と関係の深かった抑圧的な体制に反抗したのは政治的だが、純粋な思いで抵抗した市民が多かったのではないか。
東独の学生たちにどれくらい政治的な意図があったか、正確に測るのは専門家でない私からしたら難しい。しかし全く政治的な意図の無い黙とうだったと言い切るのも難しいと思う。同級生のおじさんの家でひそかに禁止されていた西独の米占領軍の放送を聞いていた学生たち。おじさんの家での、黙とうをするかしないかでの話合いでは、ソ連撤退の声もあり、自分たちの行動を「革命」と表現する学生もいる。レストランで駐留するソ連軍に豆(?)を投げつけて、追っかけられ捕まるが見逃がされる学生もいた。
実際に黙とう後に当局に追求された時は、「犠牲者にサッカー選手がいたから彼に対する黙とうだったと言おう」となり、「ノンポリ」を装うことが決定される。これは学生達の間で黙とうが政治的だったと認識されていた裏返しとは言えないか。
学生たちに反ソ意図や反逆意図があっても純粋な思いには変わらないはずだ。細かい指摘に見えるかもしれないが、言葉の中身を考えず、詰めないで書いてしまう日本語の使い方は、映画を見る際の共感や理解を鈍らせてしまうのではないか。
逆に言葉への違和感をきっかけに映画をよりよく知ることもできるが。
さて、映画自体の感想だが、文句無しに素晴らしいものだった。実話を基にした無駄の無いストーリー展開。緊迫の展開に乗るのは静かで陰気な(しかしどこか美しい)音楽。ネガティブなシーンも多く、観ている側の気分を見事に最低にしていく迫真の演技。(特に毛の先から爪先まで社会主義の暗部を染み込ませたような当局側の演技は素晴らしかった) 映画としてのクオリティが余すところなく体制側の理不尽さと翻弄される学生や、親などの学生に関係している人々の苦悩を描き出し、終盤の「スパルタクスは私です」的展開(見たら分かります)で人間の良心に深く感動するのだ。
だがこの映画の凄さはそこに留まらない。体制側の抑圧や「悪」をも立体的に描くことで、影だけではない東独の「光」の面も描かれ、また、何故東独が抑圧的になってしまったのか考えることで、映画では直接描かれないナチス時代のことなど、ドイツやヨーロッパの歴史について、横と縦軸両方広げて考えるきっかけを、この映画は提示してくれる。
こうした映画としての申し分の無さを通して、私が一番実感したのは、
「政治に対して無関心であることはできても、無関係でいれる人はいない」
ということだ。(映画を見て自然と心の中で出て来た言葉だが、どこかで誰かが書いてた言葉かもしれない)
物語の最初の方では学生たちは友情や将来を、校長は学生と自らの立場と学校を、学生の両親や親族は自分たちとは違う子供の未来を、それぞれ政治という厄介なものから守ろうとする。できるだけ政治を遠ざけようとする。政治の網をかけようとする当局に対し、ノンポリ的に穏便に済ませようとする。
しかし当局の執拗で嫌らしい追求により、しだいに政治の鉄の網をかけられ、生活が裂かれていく。では何故「政治を遠ざける」のは上手くいかなかったのか? もちろん当局の酷さもある。しかしより根本的な答えは、西側放送を学生たちに聞かせてくれたおじさんの言葉にあると思う。主旨はこうだ。
「何故君たちは反抗するのに大学に行こうとするのか。君たちは自分で考え、国の敵となるのだ。分かるか。私はアナーキーにも共感するが。ある意味で、追求する当局側は正しい」
これはノンポリを装おうとする学生たちの痛い点を付いている。当局側にはかつてナチスと死闘を交わした者も多く、当局側ボスとも言える教育大臣の身体にはナチス時代にゲシュタポに付けられた凄惨な拷問の傷跡がある。彼等彼女等にとって十年以上たっていたとはいえ、ナチス時代は遠い過去ではないはずである。(これはもちろんドイツに限らず、豆(?)を投げられたソ連兵が、学生たちに追いつきながら見逃がすとき「こんなところ好きでいるんじゃない。ナチスめ。皆殺しにしておけばよかった」と毒づくシーンがある。これはナチスがソ連に攻めた際、どれほど残酷なことを行ったのかを示しているのではないか) またこの映画でも学生たちの親世代がいかにナチスやソ連に対し協力的に、欺瞞的に関わってたか、暴かれていくシーンがあるが、当時は西独側も、政府に復権したナチスの残党が巣くっていたのは、当作品監督の前作「アイヒマンを追え」がよく描いていることである。
東独の当局者からすれば、冷戦下であり、かつて自分たちを痛め付け苦しめたファシストどもが巣くっている(ように見えた)西側がいつどんな手を使い、自分たちを再び地獄に落とそうとしているか、少しも隙は見せられない(という気持ちだっただろう)。ハンガリーの「反革命動乱」はどのような経路で西側に、ファシストに扇動されたのか。思想的に疑わしい学生たちが進学して技術等を身につけたら、将来国家に対して何をしでかすか。どんな隙間からファシズムが入り込んでくるか。強迫観念に取りつかれ、人の行動や言動の全てに「政治」を見出さずにはいられなかった体制側の不幸。しかし合理的ではないが、その不幸にも理由はあったのだ。
そんな体制の鉄の網にかかれば、友情も恋も家族関係も将来もお互いの離反と疑心暗鬼に利用され、仲間同士の結束が綻ぶ理由となる。全てのものを政治の場に拾い上げ、ふるい分け、叩いていく「総力戦」。
「黙とうをするなら、政治の場から目を背けずに、体制の理不尽と戦い抜く覚悟はあるか」
おじさんが学生に問うたのは、そういうことではないのか。
やがて学生たちも覚悟を決め、当局側がかける網に乗り、逆に政治を付き返していく。親たちの過去の欺瞞が暴かれていくのもその過程でだ。では、これは「覚悟を決めて政治と向き合った若者」vs「欺瞞の大人たち」の世代間二項対立映画なのか。違う。物語の結末で学生たちが下す決断に対して、大人たちも「しぶしぶの同意」や「沈黙の決断」により学生たちに結果的に同意することで、学生たちも決断を成就することができたのだ。ナチスという過去と社会主義の現在という二つの網の中で、二重にも三重にも態度を使い、自分自身や大切な人を守った人達の物語でもあるのだ。
そしてこれは戦後ヨーロッパの歴史そのものである。
「三台のピアノを同時に弾く」
これは戦後社会主義だったルーマニアの政治家デジの外交に対し言われた言葉で、社会主義一辺倒ではなく、東側とも西側とも上手く協調しながら、ソ連と対立していた中国にも独自の態度をとることを表現したものである。またハンガリー革命が鎮圧された直後にトップに立ったカーダールは、革命で市民に推されてトップになっていたナジを処刑、徹底した粛清を行うが、その後は一定以上の言論の自由を許容し、経済改革を積極的に行うなどし、やがて東欧に民主化の波が来た際の、無血での民主化移行へと繋がっていくことになる。また東独も後には外交的にはソ連に協力的だが経済的にはソ連と距離をおいて改革を行い、成功を収めることになる。このように一貫してないように見える「三台のピアノを弾く」ような態度こそが、激動の欧州を支えてきたのかもしれない。
本作のように、全ての立場に光を当てていくことで、却って現実の重みを感じることができる作品が、映画に限らず本等でも、最近は多い気がする。それは何層にも作品の構造自体が連なっており、時代という縦軸と、当時の世界という横軸を同時に広げて考えていくことにも耐えられる、精巧な映画ということでもある。現実に汚されない安全な「純粋さ」を求めているだけだと、縦と横の軸を広げたときにパリンと割れてしまいかねない。
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