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星野源と首相のコラボを観て考えたこと

 ハルコは社会人二年目で、某大手企業で総務をしている。苦労した就活の末手に入れた、それなりに安定した道。残業も比較的少ない。このまま仕事は堅実にして、仕事後や休日は好きなライブに行ったり、友達とカフェでくつろいだり、時には呑んだり、そんな生活がしばらく続くことを希望している。激しい変化や極端に聞こえる意見を受け取ったときに起きる、実は繊細な心の揺れは、できるだけ無いようにしたい。いや、繊細な心なんて持ってないことにしたい。もっと言うと、激しい変化も極端な意見も、現実ではない。SNS上の一部の人たちだけが、血眼になって追っているものと思いたい。きっと、そうに違いない。

 新宿駅前の巨大ビジョンに、首相の「be cool!! Japan to worldに向けた決意表明について」という演説が流れる。一瞬心がざわめく。ざわめく心にフタをしようとする。2023年4月。まだ、夕方は冷たい風の日も多い。何故か自分はモニターの下で動けなくなる。SNSの一部の人たちみたいに、誰も今はハルコを責めてないのに、何故か、これからもあると信じたい日常が揺らぐような感覚。

 しかし、次の瞬間モニターは切り替わり、笑顔で歌う、ハルコがずっとファンだった歌手が登場した。フッと心が軽くなり、次に若者たちが芝生の上で、手拍子をしながら、その歌手の歌の続きを合唱する映像が出て、政府主導イベントの宣伝は終わった。

 ハルコの中に最初にあった揺らぎは、風に舞う木の葉のように、どこかに飛んで行ってしまっていた。あとは、このままの日常が続くんだ。これでいいんだ。極端な反抗や疑問を持つなんてしなくていいんだ。という安心感だけがあった。一番好きなアーティストの心の底からの笑顔があり、自分と同じくらいの若者たちの元気な合唱がある。それを導く人を、私が肯定するのは当然なんだ。

 旭日旗を振り回しながら叫ぶ人や、ボロボロの服と伸び放題の髭でアコギを奏でる老人。ハルコは速足で、駅の中へ入っていった。


 昨日の朝からツイッターを賑わし、炎上させた星野源と首相の「コラボ映像」。

「経済的苦境に陥り、店や会社がいくつも潰れそうな中で補償も碌に検討せず、優雅に過ごす映像をアップしやがって。ふざけるな。友だちと会えないだとか、呑みに行けない、だとか、そんな程度じゃないんだ。『そんな程度』どころではない苦しみは意図的に放置する気だな」

 そんな主旨の批判がほとんどだったと思う。私もその通りだな、と思う。そして政府は、選挙向けターゲット層を絞り、それ以外がじわじわ滅びるのを待つ、という路線を明確に取り始めたな、とも思う。

 日本人の中で、そこまでお金に余裕は無いにしても、まだ「自分は一応生活して遊んでいくだけのお金はあり、残業も多くとも、死んだり病んだりするほどではない。今までの状態がこれからも続けば、少なくとも大きな現実の変化で物の見方を変えざるをえない苦しみは味わなくて済むし、必要な改革は今の政治でも十分やってくれるはずだ」と思っている層は(減ってきているとはいえ)意外と多いのではないか。極右といわれるような過激層といつまでも普通で安定でいたい人たち双方から一定以上の支持を集めるというのは、ある意味すごいことではある。

 逆に、中小企業やマイナー芸術、ミニシアター等は、政府からしたら「守る必要あるのか。寧ろ政府に反抗的な表現とかがあって胡散臭いんじゃないか。このまま滅んで貰おうかな」と睨まれそうではある。そして徐々に「都合の悪い表現」が生まれる「場」が破壊されるのを待ち、大資本と政府主導による「方針に従ってくれたらお金は出しますよ」という首に生存の縄をかけられたような体制がますます強固になる。

 そうなると「あいちトリエンナーレ騒動」が去年にあり、今年コロナ騒動が来たのは示唆的といえる。

 そんな中で、苦渋の決断か恥知らずの決断かはそれぞれだろうが、アーティストたちはファンやスタッフやメンバーの思いや生活のことも考え、政府に従わざるを得なくなる。そうなればさすがに、ある程度はセンスのいい「官製文化イベント」は作られるだろう。その時にハルコみたいな、まだ日本に一定数はいる層は、安心するのだ。「与えられた安定が、まだ続くぞ」と。極端な人に押し付けられる「正しさ」なんてうんざりだ、と。

 しかし、本当に経済的に精神的に苦しむ人たちが徘徊し、救われるならナイフさえも掴む状況が、「一定数を囲い込む」事態は、極論が極論を呼び、現実化し、政治も日常も全面的に機能不全に陥る「焼け跡」(TVODさんの『ポスト・サブカル焼け跡派』より)的状況の持続化をもたらすだろう。そうなると、休戦はいつ訪れてくれるのやら。

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