「ご立派な言葉」で表された「やりたい事」は決して嘘ではないのだろうが、端的に疲れる
昨日は呑み過ぎたし、プライベートな電話だが少々過激な話をしてしまった気がする。
昨日で今年分の仕事は終わった。今年は昨日終わりの人も多いのではないか。
仕事もそうだが、転職活動や作品執筆、その他様々な事を、コロナの中でも行動に移せ、完璧とはいかないが、概ねやり切れたと思う。振り返れば密度の濃い充実の年であった。
やりたい事が逆境に負けずできた年。
しかし、そもそも「やりたい事」とは何か。そんな事を考えている内に、今年の反省点も見えてきた。反省点と言っても「これをやっとけばよかった」とかの後悔では無く、自分自身へのケアが足りてなかったんじゃないか、というのがある。
話は変わるが、ある対談動画を見ていたら「学生に話をして感想レポートを書いて貰うとどうしても『立派な文章』のレポートがたくさん来るんですよね……もちろん嘘が書いてあるという訳ではないと思いますが」という話があり、「なるほど」と思った。嘘が書いてある訳ではない、というのが重要で、正直に書いているつもりでも、どこか高尚な基準を自分の中で持って、内容を精査し文章を組み立てるから、嘘ではないが現実から離れたような文章ができてしまう、という事ではないか、と私なりに解釈した。(私もnoteを書く上で時折そうなりがちなので注意したい)
今年の私の「やりたい事」も、結局かなり真面目な基準で「これがやりたい事だ!」と判断し動いたように思える。地元に根差し将来性のある業種でワークライフバランスを保ちながらも真面目にレベルアップできるように転職活動を進めるとか、コロナもあり変化する社会の色濃く残る閉塞性を小説を通し描き切りたい、とか、全て嘘ではないが、何だろう、これだけだと生活が置き去りにされている気がするのだ。
「やりたい事」全てやるぞー!月曜朝だるいから会社サボるぞー!少しでもむかつく事あったら叫んでぶん殴るぞー!勝手に二か月くらい休むぞー!やるぞやるぞー!という訳にもいかないが……
やるぞやるぞー!とは行かないまでも、来年は「そりゃ皆月曜朝は会社行きたくないって思ってるんだろうから、気持ちに蓋して我慢して行かないとねえ」で終わらせず、自分が今より心地よくいれる環境は無いのか、何をしているときが楽しくて何をしているときがあまり楽しくないのか、といった感情次元でも物事を考え、転職活動でも何でも、やっていけたらと思う。
共産国家の一年の締めくくり演説のようなnoteをほぼ書かなくなった時に、そのゆるい目標は達成できた、と言えるのだろう。
「本年は昨年に比べ、ゆるい時間を3.5倍確保する事ができ、現代社会で進化する為の確実な主体の確立に大前進する事ができた!」という文章を書き、読んでくれている皆さんをズッコケさせてしまうかもしれないが……