聖書は意外と男女平等
聖書の世界でよく言われることがあります。聖書が一見、男尊女卑に見えることです。しかし、聖書というのは意外と男女平等ですよという話を書きたいと思います。
まず、イエスが神を「天の父」と呼ぶことです。聖書の箇所にもよりますが「アッバ、父よ」とか「御父」と書いてあり、神は暗黙のうちに「父」です。なぜ「天の母」ではないのか、という議論があります。しかし、これはおそらく「神」が男性名詞であることから来ます。
日本語に名詞の性別はありません。そして多くの人の最初の外国語である英語にもありません。私自身がはじめて第二外国語を習ったとき、ちょっとかじっただけのドイツ語では、男性名詞、女性名詞、中性名詞があって驚いたものです。名詞に男や女があるのです。
たとえば英語で「I opened the window.」と言いますと、「窓をあけた」という意味ですが、その窓はひとつであったことが、windowが単数形であることからわかってしまいます。こういうのが言語というものの特徴だと思うのです。同様に、神が男性名詞である文化では「神」と言った瞬間に「男」というイメージがわくため、イエスが「神様はみんなの天の親だ」と言いたかったときに、ごく自然に「父」という言い方になったものと考えられます。
つぎに、イエスの十二弟子が全員、男であることです。これも、女性の弟子もいたのだとか、いろいろなことを言う人がいます。しかし、私の考えでは、このイエス十二弟子というのは、「真田十勇士」とか、「白波五人男」というのと同じようなものであって、単に十二人でそろえたかっただけだと思います。私の幼少のころ「科学戦隊ダイナマン」というのがありました。5人出て来まして、確かひとりは女でした。ピンクが女であり、あと4人は男であったと思います。40年も前の戦隊ものを出してすみません。ゴレンジャーみたいなものでも同様だろうと思います。これも白波五人男と同様のものであると考えられます。真田十勇士も、猿飛佐助とかしか私はわかりませんが(猿飛佐助は真田十勇士ですよね?)、イエス十二弟子も、だいたいペトロとヨハネ、ヤコブくらいいたらもうよいのであり、タダイとかなんのためにいるのですか。名前しか出ないではないですか。それから、イスカリオテのユダが抜けたあと、マティアというのが補充されますが(新約聖書使徒言行録1章26節)、このマティアというのもあとで出て来ません。ようするに、イスラエル十二部族もそうですが、こういうのを喜ぶ皆さんの気持ちに応えているに過ぎないと思うわけです。聖書って昔の人のテレビですからね。
そして、マルコによる福音書によれば、イエスの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)です。よく言われますが、悔い改めとは、反省する意味ではなく、方向転換を意味するそうです。ここで私のこじつけ解釈をしますと、イエスはこう言っています。「見方を変えなさい。ここから聖書の主役はわたしではなく、わたしに助けてもらう人たちである」と。そうして、マルコ福音書は、そこからひたすら、必死でイエスに頼って助けてもらう病人や障害者を描きます。その人たちが聖書の主役であるとすると、これはもう老いも若きも男も女もいます。十二年出血の人は女です。シリア・フェニキアの女は、女です。盲人バルティマイは男です。三十八年、歩けなかった人は男です。子供が悪霊に取りつかれた父親は男です。ナインのやもめは女です。こうしてみると、「聖書の主役」は老若男女いますので、聖書は意外と男女平等に描かれているのです。
キリストの弟子は、聖書のなかでは、徹底的な間抜けとして描かれています。弟子が主役であるはずがないと私は思っています。聖書の主役は、イエスに助けてもらう人たちです。
というわけで、聖書は意外と男女平等である話でした。
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