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いもとおなら

 小学校の算数の教科書に、「食料自給率」の話が出ていました。最初に断っておきますけど、私は、食料自給率については、なにも知らないしろうとです。ただ、算数にかんしては、(数学を専門としてきましたので)少し知っていると言ってよいでしょう。教員をしていたこともありますので、このような項目が算数の教科書に出てくるのも「探究学習」みたいな意味合いがあるのであろうこともなんとなくわかります。

 きょうは、「しろうとが見たら、こう見える」という視点で、この記事をお読みくだされば、と思います。

 その算数の教科書、4ページぶんから強烈に感じられたことは、教科書は、暗黙のうちに「食料自給率は高くなくてはならない」という前提に立っていることです。そうは書いていないものの、小学生に、そう思わせるように、強烈に方向づけをしていました。(繰り返しますが、日本が、ほんとうに食料自給率を高める必要性があるのかないのかという話は置いておきますね。)

 まず、私が、強く感じたことは、これは、小学校の先生にありがちな「自分のことは自分でしましょう」の精神ではないかと。食料自給率も、そうだ。なるべく外国に頼らずに!じっさい、食料自給率が低いと、自国の農業、水産業が衰退したときや、外国からの輸入がとまったときに食べ物がなくなる、という説明が、一行だけ、書いてありました。しかし、しろうと考えですけど、輸入して輸出して、国どうしは成り立っているんじゃないですか?自分の国のことはできるだけ自分でやって、たとえ外国と仲が悪くなってもだいじょうぶにして、その代わり、他の国は助けない、とかいうので、いいのでしょうか?

 (ほんとうに繰り返しますが、私は、外交の専門家でも、貿易の専門家でもありませんからね!しろうと考えです。でも、その算数の教科書にも、「考えてみよう」と書いてありました。小学生がしろうと考えすることを推奨しているのですから、私もしろうと考えをします。)

 要するに、いろいろな考えがあっていいはずなのに、ひとつの考えに小学生を誘導しているのが気になるということです。

 国産の食材を使った食事を食べていれば、食料自給率はあがるのではないかとか。私は、つい論理的に考えるので、このような教科書の発想が、ついていけなかった。いくら考えてもわからなかったのです。ようやくわかった。「国産のものを食え!」って言いたいだけですか。論理もなにもないですね。小学生に空気を読ませていますね。「どう答えたらマルになるのであろうか」と。吉野家の牛丼(おそらく外国産ビーフ)や、ファミリーマートのファミチキ(おそらく外国産のチキン)を食べるな、っていうこと?教科書っていうのは、いろいろな子どもが読む。吉野家の子どもや、ファミリーマートの子どもも読むのに。

 ずいぶん前の話を出します。20年以上前。博士課程の大学院生でした。ある小学生に、少し勉強を教えていました。ダムをこれ以上つくるべきか?という話。その当時、私には、ある建築会社に入って、ダムをつくっている会社の仲間がいた。「大人の事情で」ダムは作らなければならないが、子どもに教えるのは、「これ以上、ダムをつくって、環境破壊をしないこと」であるらしい。まもなくそこの家庭教師はクビになりました。

 食料自給率の話に戻ります。アンケートをとるようにとのことも教科書には書いてありました。「買い物をするとき、国産であるかどうか、気にしていますか?」というアンケート。そもそも「アンケートの取り方」を子どもに教えていないと思うのですけれど、しかし、このアンケートって、ものすごく失礼なアンケートじゃないですか?買い物をするとき、国産かどうか、気にしていますか?ってひとに聞けますかね。

 そして、しきりに、「自分たちでもできることを考えよう」と書いてある。なんのために、といったら、ここまででもう暗黙のうちにわかった「食料自給率を上げるため」である。だいたい日本だけ考えているのはどうかと思うので、宇宙から輸入できないことを考えると、地球全体で100%というか、いや残飯になる食物が9割くらい(?)を占めていることを考えると、どういうべきかわからないですけど、ものすごく貧乏な国もあるわけですよね?やっぱり、自分のことは自分でしましょう、自分の国は自分たちで守りましょう、その代わり他の国のことは知りません、って言っているように思えるんですけど。(「仕向量」(しむけりょう)なんていう言葉もはじめて知りました。小学生の算数の教科書に、説明もなしで載せる言葉じゃないと思いますけど。しかも、小学校の国語辞典に載っていないし。)

 「カロリーベース」という言葉も初めて知りましたね。どうも、輸入や輸出を考えるとき、カロリー(熱量)で考えたり、金額で考えたり、重さで考えたりするみたいなんですけどね。いきなり算数の教科書に、説明もなく「カロリーベース」という言葉が出てくる。また小学校の辞書を引きますが、載っていない。「カロリー」は載っていて、熱量の単位で、1gの水を1度あげるのを1カロリーという、みたく書いてある。それで、「熱量」を調べると、熱の量のことで、1gの水を1度あげるのを1カロリーという、みたく書いてある。意味ない辞書ですね。カロリーを引くと熱量と書いてあり、熱量を引くとカロリーと書いてある。かろうじて、熱量の説明で「熱の量」と書いてあったが、「熱量」の説明で「熱の量」はないであろう。なんの説明にもなっていない。

 辞書の脱線はこれくらいにしまして、あと、「自分たちでできることを考えよう」の続きですが、つぎに「地域の人と協力して」などと書いてある。しかし、いまどきの小学生が、「地域の人」と「協力」するだけの、地域のつながりってあるのだろうか。これは、全国、いろいろな地方差があると思うのでなんとも言えませんが、なんか、「地域の人とつながりのある子ども」って、たとえば吉野家やファミマの子どもよりよほど少ない気がする。吉野家とファミマばかり出してごめんなさい。ほんとうにこの道はしろうとなので、バランスのとれた書き方ができないのです。(ちょっと教会に通っている子どもは少しだけ地域の人と接触があるかなと思いましたが、それはごく一部ですし、手前みそっぽいのでこの話はやめますね。)

 グラフから読み解く問題もあった。国内の消費と国内の自給率にかんする問題だったが、「正しい」か「正しくない」かで答えましょう、と書いてありました。小学生に「正しいか、正しくないか」の2択で迫るのはなんとも嫌でしたが、しかし、私の答えは、模範解答とは違っていたようです。しょうがない。私は数学という「空気が読めなくてもできるもの」はわりと得意かもしれませんが、この問題は、空気を読ませまくりだからです。因果関係にかんする問題でしたが、因果関係というものが、いかに難しいかを、それを読んだときに思いついた例があるので、ここでご紹介することにいたします。「いもとおなら」の例です。ようやく、この記事の題名にたどりつきました。

 AさんとBさんがいました。Aさんが、おいもを食べました。しばらくして、Bさんが、おならをしました。これで「Aさんがいもを食べたので、Bさんがおならをした」という言い方は成り立つであろうか。あまり成り立たない気がするのではないでしょうか。Aさんがいもを食べたのも、Bさんがおならをしたのも、事実であります。しかし、「Aさんがいもを食べたので、Bさんがおならをした」と言われると、違う気がする。そんな因果関係はないと思うからですね。でも、以下のような状況はどうでしょうか。

 すなわち、AさんとBさんは、兄弟だったのです。兄であるAさんがおかあさんからおいもをもらって食べたので、弟であるBさんも欲しくなって、「おかあさん、ぼくにもおいもちょうだい!」と言って、Bさんもいもを食べたのです。そして、Bさんは、おならをした。

 こう考えると、「Aさんがいもを食べたので、Bさんがおならをした」という言葉は、真実である気がしませんか?たしかに因果関係があるということになりはしませんでしょうか。(へりくつに聞こえますか?もう一度、この一連の流れをお読みいただけませんでしょうか。)

 このように、因果関係とは、とても難しいものです。その問いは、グラフから因果関係を読み取る問題だったのですが、そんなところで小学生に「正しいか、正しくないかで答えよ」という2択を迫ってはいけないと思うのですけど。これも「答えはひとつ病」の一種ですね。

 とにかくわずか4ページながら、これでもかと突っ込みどころのある教科書で、参りました。いまどきの小学生に「地域の人」とのつながりはあまりないと思うし、それになんといっても、「食料自給率を高めるべし」という暗黙のうちに目指すべきものがあって、それに小学生を仕向けているというのが納得いかないです。

 以上です。ここまでお読みくださりありがとうございました。

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