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解ける問題ばかり載っている不自然さ

 小学校の算数の教科書や問題集を見ていて思います。つくづく、「解ける問題ばかりが載っているなあ」ということです。

 たとえば、「これは、おしりたんていの顔ではないか」というような変な形の面積を求める問題が載っていたりするのです。「こんな変な形の面積を求めることは、少なくとも日常生活では、ないよね」というような問題です。でも、それは、解けるのです。円の面積の公式を知っていたら、解けるのです。逆に、解けない問題は載っていないのです。当たり前と思われるかもしれませんが、これは、ある意味で不自然です。

 高校の数学で、「漸化式(ぜんかしき)」というものを習ったことのあるかたは多いのではないかと思います。多くの普通科の(私は普通科以外を知らないので不勉強ですが)高校で、文系理系を問わず、習うものです。しかし、漸化式というのも、典型的に「解けるもの」だけが教科書や問題集に載っているのです。中高の数学の教師をしていたあるとき、個人的に質問に来た高校生に、「『以下の漸化式を解け』という問題は、解ける漸化式だけ出て来るんだよ。適当に漸化式を立てて解いてみようとしてごらん。まず解けないから」と言ったら「ほんとうですか!」と驚かれたことがあります。これは大きな錯覚ですね。この錯覚は、小学校のうちからあるのです。

 ほんとうの「問題」と言えるのは、たとえば、「環境問題」であったり、「緊急事態宣言を解除するタイミング」であったり、あるいは「私はこれからどうやって生きていけばいいのか」など、そういう問題です。これも教師の時代の経験ですが、「情報」の実習助手をしていた時代、「問題解決型学習」というのが出て来ました。そのときの情報の先生は「なかなかやせない」というご自分の「問題」を、教科書に書いてある手順で「解決」しようとなさっていました。その先生のせいではなく、どこか文科省かなんかがおかしいのだろうと思いますが、私はその場から逃げ出したくなるほどの思いにとらわれました。当時、書いた原稿に「問題解決型学習は、うさんくさい!」という文章があったと思います。それは「なかなかやせない」くらいの問題を解決するのには役に立つ方法かもしれませんが、そういうハウツーは、問題が深刻なほど役に立たないとしか言いようがないものです。

 きのうも少し書いたことで恐縮ですが、私の大学院時代の専門(数学)は、専門外の人には説明不可能なものです。よく、私の専門を聞いてくる人が「聞いてもわからないと思うけどね」という言葉を付け加えてくるという経験を何度もしました。そんなの、わかってますって!わかってもらえるとは思っていませんって!これは、決して、質問者の頭が悪いということでもなく、まして私の頭が良すぎるとかいうことでもなく、数学の専門のなかでは、「何年もその道の修行を積まなければ理解しようがないこと」というものがあるものですから、どうにも説明のしようがないのです。「どういうことでも、説明されれば理解できるはず」と思っているのも、上のと似たような錯覚でしょう。

 ほかにも、社会の教科書で、縄文時代や弥生時代について書いてあることも、どこまで信用してよいことかわからないというのが、まず読んでの感想です。すべてのことはわかっているのか?私が習った何十年か前と、いまとで、縄文時代や弥生時代の説明が、少し違ってきていることからも思うことです。モーセの出エジプトは考古学的に裏づけされないという本(長谷川修一『聖書考古学』)は読んだことがあります。しかし、イエスやペトロ(ペテロ)、パウロは世界史の教科書に載っており、ひとくちに聖書に書いてあることがすべて歴史的に否定されるわけでもない…。いや、モーセさえも、世界史の教科書に実在の人物のごとくに書いてあるのではなかったか?そうしたら、スサノオノミコトとかはどうなるの?近所の神社は、1,900年前に作られたと看板に書いてあるけど、それは弥生時代ということになりますよね?どの程度、信用してよいことなのかがわからない、ということが、小学校の社会の教科書を読んでの感想です。でも、教科書に「よくわからない」と書くわけにはいかないのでしょうかねえ。すべてはわかっていることのように書かねばならないということでしょうか。

 だんだん話がそれているのに乗じて、もうひとつ、それた話をしますね。どの教科書か忘れましたが、疑問な点をいろいろな人に質問するという話のなかで「地域の人に聞いてみる」ということが書いてありました。「地域の人」?これは地域差があるかもしれませんが、私の住んでいる土地では、少なくとも、多くの小学生が、地域の八百屋さんに質問などができる地域社会みたいなものは存在しないと思います。いや、八百屋さんも(ないわけではないですが)めったにないのであって、それよりずっと多いのはコンビニで、コンビニの店員さんに聞いてわかることか、そもそもコンビニの店員さんとそれほどつながりがあるのか、はなはだ疑問でした。この項目、何十年も前から変わっていないのかも?

 もうひとつ、それた話題を出しますね。仁徳天皇陵古墳の大きさを、東京ドームの大きさと比較していました。私は東京に住んでいましたから、東京ドームは(入ったことはないですけど)知っており、だいたい想像がつきますが、東京ドームを見たこともない大多数の東京に住まない全国の小学生はどうしたらいいの?これが、仮に、仮にですよ、「ナゴヤドーム」で例えてあったらどうなるか。おそらく、名古屋以外の土地に住む児童、教師、保護者から、一斉にクレームが来ると思うのですよね。それと同じくらい乱暴なことをしているのに、なぜ「東京ドーム」との比較はゆるされているのか?(これ、無意識的な東京中心主義ですね。)

 というわけで、小学校の教科書を読んでいるだけでも、疑問に感じることはすごく多いのでした。最初の「解ける問題」の話に戻っても、解ける問題のなかには、やたらとややこしい問題が「発展問題」として載っているのでして、私の感覚では、それは「難しい」問題なのではなく「ややこしい」問題なのです。(上述の高校の「漸化式」でも同様でした。やたらややこしいパズルみたいな漸化式の問題が存在します。積分も同様。また、どういうわけかそういうのを教えるのが好きな教員が多かったですね。漸化式の本質を理解していない教員ほど、その傾向が強かったです。言いたい放題ですみません。)その「ややこしい」問題を、塾などに行って解けるようになることが、「勉強ができる」「賢くなる」ことだと錯覚していて、中学入試とか言ったものは、そういった塾で習うような「ややこしい」問題を問うものなのです。無駄な拡大再生産(?)をやっている気もします。私は小6のとき担任に、「このままでは中学へ行ってやっていけません!」と叱られていましたが、実際には中学から勉強ができるようになって叱られなくなり、大学はとてもいいところに行った。しかし、「社会へ出てからやっていけません!」ということでは、その小学校教師の言ったことは正しかった。

 そんなわけで、小学校の教科書を見ていると、何重にも複雑な思いにとらわれます。

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