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「論破」より「なさけ」(短縮版)
(以下に書くことは、数日前の記事である「「論破」より「なさけ」」の短縮版にすぎません。オリジナル版はこちらです。)
世の多くの人が「論破」が好きであることは知っています。論破すると自分が賢いような気持ちになるのでしょうか。
私の友人で、三浦綾子のある本を貸してきた人物がいます(彼はクリスチャンです)。書名は忘れたのできちんと書けずにすみません。その本のなかで三浦綾子はひたすら「人はみな罪人(つみびと)である」ということを、理詰めで説明しようとしていました。(「人はみな罪人である」という主張には反論する気はありません。ここで言いたいのは三浦の論の持って行き方です。)三浦綾子本人も自分は理詰めのつもりですし、本を貸してきた彼も「三浦綾子の論は完璧だ」と思っているから貸してきたのです。しかし、私は、「数学」という「論理そのもの」のような学問を修めてきたためか、もっともそれを言えば私が人一倍「論理」の人間であるから「数学」という学問を選ぶことになったのか、どちらだかわかりませんが、とにかく私には三浦の論はあちこちで「破綻」しているのがよくわかりました。そして著者の三浦綾子自身が「自分の論は完璧だ」と思っていることもよくわかりました。私には世の中で通用している論理とはその程度であることが見えています。
「ディベート」みたいなものをさかんに学校教育で行うようになったのは、おそらく私が高校生くらいのとき、すなわち30年前くらいからではないかと思います。これも「論破」を教えている教育みたいなものです。私が中高の教員であったときも、しばしば「ディベート」はあったものです。これも私には多くの場合「お互い論理の破綻した者どうしの対決」に見えていました。とにかくツイッターにしてもYouTubeのコメントにしてもなんにしても、論理的に破綻した議論が非常に多いことは確かだと思います。
私のことを「きみの言うことは突っ込みどころが満載だ」という人と、「完璧に説明していて反論できる人はいないレベルです」という人といます。どちらが本当かを言ってもしようがないものがあると思います。なぜなら人間の論理には限界があるからです。
私は、この「論破」の対極にあるものが「なさけ」だと思います。ひたすら論破しか頭にない人は、相手の「論理的破綻」を見つけるとそこを集中攻撃してきます。というべきか、それしか能はありません。そこに「なさけ」はありません。私の両親は典型的な「論破教信者」で、「なさけ」というものがありません。私の実家は、ひたすら「論破したほうの勝ち」というルールで日常がまわっており、そこに「親のなさけ」はないのでした。いまだにそうです。私が生まれてから46年、彼らはなにひとつ変わっていません。私はようやくその洗脳から脱しつつあります。今年8月に、ある町の教会のシェルターに滞在させてもらい、「損得勘定でない、善意でまわっている世界」に腰をおろした瞬間に母からの「100%金勘定」のメールが届き、そのあまりの落差に愕然としたものです。その教会のシェルターは「なさけ」の世界でした。「論破」の世界に生きる私の両親、そしてそのもとで何十年も洗脳されていた私とは別世界でした。
だれでも突っ込みどころはあるのです。だれでも揚げ足は取れるのです。私のことを「突っ込みどころ満載」と言ったその友人(友人と言えるのか?)も、もちろん論理的に完璧なはずはなく、彼もまた「突っ込みどころ満載」です。「人を裁くな」(新約聖書ルカによる福音書6章37節)とイエスは言いましたが、これは、「論破」ではなく「なさけ」で生きることへの招きだと思います。だれでも突っ込みどころはあります。揚げ足を取ったら(取られたら)キリがないです。それよりは、お互いの過ちに目をつぶりつつ、ゆるしゆるされて生きるほうがよいことを言っているのだと思います。それを「なさけ」というのだと思います。お好きな歌を思い浮かべていただきたいと思います。ほとんどの歌は、「論理」ではなく「なさけ」を歌っているだろうと思います。人は論理では生きられません。人はなさけによって生きているのです。これが「論理の極致である」数学を修めてきた私の現在の着地点です。