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「聖書以前」

 よく、「よいサマリア人のたとえ」(新約聖書ルカによる福音書10章25節以下。極端に親切な人のたとえ)を引き合いに出すかたがいらっしゃいますが、私はしばしば、「それは単に『ひとに親切にしましょう』って言えばいい話じゃない?わざわざ聖書を引き合いに出す必要ある?」って思いながら話を聞いていることがあります。これは「聖書以前」と言うと思います。聖書以前に、人として、ひとに親切にすることは当たり前ですから。

 とはいえ、私は修士課程1年のときに、半ば強引にCS(教会学校)キャンプの引率をやらされましたが、そのときのキャンプのテーマが「隣人になろう」ということで、「よいサマリア人のたとえ」が読まれたことがありました。私は、「なんと親切な人のたとえか」と思って涙しながら話を聞きました。私が生まれて初めて「よいサマリア人のたとえ」に出会った瞬間でした。よく考えるとこのCSキャンプも「ひとに親切にしましょう」で済んだ話を、強引に(?)聖書に結びつけて「よいサマリア人のたとえ」を出したと考えられますが、「出したかいはあった」わけですね。私だって、大学院生になる前に、人並みに本は読んできています。「巌窟王」にしても「ああ無情」にしても読んできているわけです。それでも「よいサマリア人のたとえ」ほど親切な人の話は聞いたことがありませんでした。あの話は心して聞くべきだと思っています。

 もうひとつは、ある伝道師の話です。その伝道師は、「ぼくは同性愛差別には反対ですからね!」と、さもすごいことを言ったかのような言いかたで言ったのです。(「どや顔」っていう言葉、いまでもありますか?つまり彼はすごいどや顔で言ったのです。)これも「聖書以前」でありまして、同性愛差別をしないことがそんなに「すごい」ことには思えません。聖書には同性愛を禁止するような言葉がたくさん書いてあることは私も知っています。その「聖書」にも逆らってぼくは同性愛差別には反対ですよ、とその伝道師は言いたかったのだろうと思いますが、それは常識に照らして「当たり前」だとしか言いようのないものに私には思えました。まさに「聖書以前」です。

 同性愛ということで言いますと、旧約聖書のみならず、新約聖書のパウロでも、同性愛を禁じているように読める聖書の箇所はあります。それで「同性愛は罪だ」とおっしゃるクリスチャンのかたがおいでになることも存じておりますが、それは詳細に聖書を検討するまでもなく「イエスさまはそういう差別をなさいましたかねえ」で済む話のような気がしまして、いや、イエスを出すまでもなく、やはり「聖書以前」としか言いようのない話である気がします。

 同じような話で、「イスカリオテのユダも救われる」という内容の本を出した牧師の教会の信徒のかたに「私もユダには救われてほしいと思います」と(これもどや顔で)言われたことがあるのですが、いやみんなユダには救われてほしいと思っているのですよ。だからそういう本が売れるのですよ。と思った次第です。みなさんちょっと聖書を御大層なものとして取りすぎではないですか。聖書は世界にあまたある本の1冊に過ぎませんよ。

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