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食う寝るところに住むところ
きょうの午前中は、かなりシリアスなことを考えていました。今後のこと。私の両親は私が6歳のころ(そのころ彼らは40歳と35歳)も無理解だったが、46歳になる今(彼らは80歳と75歳)も無理解なこと。これからの私は深刻です。どうやって食って行けばよいのか。考えれば考えるほど深刻になります。とても「校正」だの「採譜」だので食える気はしません。私は「46歳、キャリアなし」なのです。せめていまが26歳で、親が60歳と55歳だったらどれほどマシか。彼らの「理解」を得ることは不可能でも、せめてまだ私が26歳だったほうが将来の可能性があった。(そもそも25歳で二次障害にやられず順調に数学者になれていればこんなに困ることはなかったのですが。)寿限無(じゅげむ)という落語を思い出します。あの長い名前のなかに「食う寝るところに住むところ」というのが出てきます。「食う」「寝る」「住む」というのがいかに大事か、です。その大切な子どもにつける名前の一部に出てくるくらいですから。したがってこういう将来の「食う・寝る・住む」にかんする話はシリアスになります。
その一方で、この話が終わるころには、私は通院に行くことになっており、出かける準備をしました。そのなかに、買い物の予定として、「スナック菓子3袋」といったものがあるのです。さっきの話からするとずいぶん世界が違います。さっきのシリアスな話からすると、スナック菓子を3袋も買う金銭的余裕などもなさそうです。でも、そうではない。これで私の気分はかなりまぎれたのです。問題はなにも解決していませんが、いわば「気がまぎれた」のです。
昔から「気がまぎれる」「気のまぎらわし」という日本語はあります。たしかに「気がまぎれる」という人生の要素があるのです。「食う寝るところに住むところ」という人生のシリアスな話題は厳然としてありますが、「スナック菓子3袋」という「気のまぎらわし」でどうにか生き延びるということがあるのです。仕事を休んで1年半、この間、ある意味でなにも問題は解決していないとも言えます。でも、たくさんの仲間の励ましがあり、善意があり、「気のまぎらわし」がありました。果たして気のまぎらわしだけでこれからも生きていけるのかどうかはわかりませんが、こういう「楽しみの要素」もかなり人生で大切な要素だと気づかされたのはこの1年半のなかでも大きな気づきだったと言えるでしょう。
私がどれくらい同じことを書いているか、以下に過去の記事をはりますね。律儀にお読みになる必要はありません。本日のこの記事にいたるまでの似たような趣旨の記事をはってみます。
半年前の記事、2つ。きょうと同じようなことを違う角度から書いていますね。でも同じ趣旨です。
これも半年前の記事です。
このあと聞いた話は、ホームレス経験者の西原宣幸さんの話で、西原さんはホームレス時代、アルミ缶集めでだいたい1日に1,000円の割合の収入を得ていたそうですが(当時、アルミ缶が1キロ80円で、西原さんは1週間で100キロ集めていたそうです。だから1週間で8,000円で、それでだいたい1日1,000円)、使い道は、そのうち600円が食費で(1日2食、1食300円)、400円はお菓子やたばこなどの「娯楽」だったというのです。やっぱり人生って「おたのしみ」の要素があるのですね!