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「タバコ裁き」はやめましょう

母が、タバコおよびタバコを吸う人を裁くことは、はなはだしいです。いわく「タバコは体によくないし、高いし、周囲に迷惑をかけるし、寝タバコで火事になる可能性があるし、いいことはひとつもない」と。イエスは「人を裁くな。裁かれないためである」(新約聖書マタイによる福音書7章1節)と言いましたが、彼女がいくらでも「タバコ裁き」をしていた理由ははっきりしています。自分は吸わないからです。自分は決して裁かれないので、いくらでもタバコ裁きをしているのです。

かく言う私も、46歳になる現在まで、まったくタバコを吸ったことがありません。理由ははっきりしています。2つの理由があります。ひとつはもっと身長が欲しかったことです。「男は25の朝飯前まで身長が伸びる」とか「タバコを吸うと身長が止まる」というような(根拠があるのかはわかりません)ことを聞いて、25歳までタバコは吸うまいと思ったのです。そして、25までタバコを吸わなかったら、そこから吸い始める機会はなかなかないですよね。ちなみに身長は伸びませんでした。もうひとつは、私にはおかしなクセがたくさんあることです。自分がタバコを吸い始めたら、やめられなくなることが目に見えていたのです。その2つの理由で、私は大人になってもタバコに手を出さなかっただけなのです。

タバコを吸う人が一方的に吸わない人に迷惑をかけているわけではないと思います。吸わない私が知らないうちに吸う人に迷惑をかけていることがあると思います。ごく親しい友人は、いっしょにいるとき「吸っていい?」と聞いてきます。私が「いいよ」と言うと、その人は吸い始めます。ということは、かなりの人が、私が吸わない人間であるために、本当は吸いたいのに我慢している場合があるということになります。そうですよね?

およそ人といっしょに過ごすことは、譲歩の連続です。私はかなり歩くのが遅いですので、私と歩く多くの人は、努めてゆっくり歩かざるを得ません(私も努めて速く歩きますが)。また、私は電車の「駆け込み乗車」はしないほうですが、誰かと歩いているとき「電車が来てるぞ!走れ!」と言われて駆け込み乗車に付き合わされることがよくあります。およそ誰かといっしょに過ごすということはそういうことだと思います。吸わない人が我慢しているように、吸う人も我慢しているのです。

「食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです」(新約聖書ローマの信徒への手紙14章3節)とパウロは言います。聖書の時代にタバコはなかったらしく、聖書にタバコに関する記述はありませんが、これは「吸う人は吸わない人を軽んじてはならないし、吸わない人は吸う人を裁いてもならない」という意味だと思います。「神がその人を受け入れてくださったのです」。平田オリザさんの、シンパシーとエンパシーの話を思い出します。私はタバコを吸ったことがありませんので、タバコを吸う人にシンパシー(同情)を感じることはできません。でもエンパシー(共感)を感じることはできます。異なる人の気持ちを想像することは大切です。これはタバコに限りません。エンパシーの感じられる人間でありたいと願っています。

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