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不幸の比較

 私の相談に乗ってくれる大切な仲間がいます。先週も、彼に電話で相談に乗ってもらっていたのですが、ふだん、ずっと黙って聞いている彼が、めずらしく口を開いたのです。「もっとひどい親子関係をたくさん見てきている。腹ぺこさんは、恵まれていると思う」。

 たしかに、私の親は、なんだかんだいって、送金してくれます。彼が言うには、送金もしてくれない、遺産も残さない、そんな親が多いのだそうです。そのときは納得しましたが、しかし、よく考えてみると、納得がいかない。

 たしかにね。うちの両親は、えげつない言葉を使うわけじゃないし、むしろ「立派な」両親だし、彼らの「なさけ」のなさ、「血も涙もないメールや電話」を、うまく伝えるのは難しいです。彼としても、私があまりに両親を悪く言ってばかりいるので、ちょっと、私の両親をかばいたくなったのでしょう。たしかに、ぐちばかり聞かされていたら、たまにはそう言いたくなるでしょう。繰り返しますけど、うちの両親は、その「本質的虐待」にもかかわらず、えげつない言葉を使うわけでもなければ、体罰をするわけでもない。むしろ、極めて「常識的な親」です。むしろ私のほうがずっと常識がない(とずっと言われてきた。自分でもそう思ってきた)。しかし、彼ら両親が、本質的に虐待をしていることは事実なのです。うまく伝えられませんけど。

 きのうの奥田知志牧師の宣教にもちらっと出て来ました。まもなく東日本大震災から10年。ある集落に行ったとき、9世帯しかない集落で、5世帯が流されていた。そこの代表のかたはおっしゃった。「いや、奥田さん、よそはうちよりもっとたいへんだから…」って。そこで奥田先生は、ここへ通うことを決心したそうなのですが、いやちょっと待てよ。これも「不幸の比較」ではないのか。

 「不幸の比較」については、私も結論が出ているわけではありません。ただし、洗礼を受ける前、いまから二十年以上前から、この、教会というところが、ひんぱんに「不幸の比較」をするという傾向には気づいていました。だからこそ、洗礼を受けるときの信仰告白には、「世の中には、私より苦しい思いをしている人がたくさんおられます。しかし、神様は、この私の小さな苦しみでさえ、決してお見逃しになりませんでした」と書きました。神様は、「不幸の比較」をなさらない、という信仰告白でした。

 比較的最近、見た、「栗田隆子(くりた・りゅうこ)」さんというかたのYouTubeがあります。栗田さんは、文筆家でありながら、現在は、生活保護と障害年金(精神障害)で生計を立てておられるかたです。以下のようにおっしゃっていました。「『あの人は私より大変だから、私なんかは、がまんしないと』という発想だと、逆に『あの人は、私より大変じゃなさそうじゃないか』という発想になってしまって、そういう人に冷たく出てしまう」と。この考えは興味深いと思いました。賢い考えだと思いました。ただし、これが正解か?と言われると、それも自信が持てません。「不幸の比較」。難しい問題です。

 このへんまでです。お読みくださり、ありがとうございました。

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