「ゆだねる」ということ
2018年、コロナの流行る前のことです。私は何回目かのダウンで、実家に滞在していました。徒歩20分くらいのところに、礼拝出席者数5人くらいの小さな教会があり、日曜の礼拝と木曜の祈祷会に通っていました。そこの牧師さんは大手企業のエンジニアを辞めて牧師の勉強を独学でして牧師になった人でした。そのパートナーさんとのある日の会話です。「わたし、信仰って一生懸命聖書を読んで、一生懸命お祈りをするのだと思っていた。そうではないよね」「ぼくも『ゆだねる』ということを覚えたのは仕事を辞めてからだね」。その教会は人数が少なかったのですが「ゆだねて」いました。
キリスト教でよくする言いかたであるこの「ゆだねる」ということを人に伝えることは難しいです。私は両親がクリスチャンでないので、その実家滞在の間も、ひたすら「ゆだねる、ゆだねる」と言っていました。ほかに言ってくれる人はいなかったので、自分で自分に言っていたのです。でも、言えば言うほど両親は反発してきます。父は「そんなになんでもゆだねちゃって、なーんにも努力しなくなったら人間ダメなのだ!」と言っていました。そういう意味ではないのだけどなあ。それでも私が「ゆだねる」と言っていたら父は「『天は自ら助くる者を助く』というのは聖書の言葉じゃないのか」と言って来ました。聖書の言葉ではないので「違う」と言いましたが、では何が出典なのかわかりません。くやしいのでのちに図書館まで行って調べました。「自助論」という19世紀イギリスの本に出て来ることがわかりました。日本に入って来たのが明治初期で、聖書の言葉と同時期なので聖書の言葉のように思えるみたいです。19世紀イギリスは無神論が流行ったようでした。神がいないから自分で自分を助けなければならないのか、自分で自分を助けるから神も隣人もいらなくなるのか、どちらだかは知りませんが、少なくとも「自分で自分を助ける」ことと「神や人に頼る」こととは正反対でしょう。
かくいう父も新幹線に乗るときに「ゆだねて」いると見抜いたのは妻でした。自宅に帰ってようやく「ゆだねる」の意味が分かっている人に出会えてホッとしたことを覚えています。新幹線どころか、電車でもバスでも乗るときにはゆだねています。なぜか飛行機や船に乗るときは「落ちるのではないか」「沈没するのではないか」と思ったりしますが、私も普段、電車は何も考えずに乗っています。車の助手席に乗るときだけではありません。運転席に乗る人も、ハンドルを右に切るときは右に曲がると思っているのは車に「ゆだねて」おり、ブレーキを踏むと止まると思っているのも「ゆだねて」います。それを言い出すとトイレに入ったら流れると思っているのもトイレにゆだねていることになり、およそわれわれの生活はゆだねることなしに成立しないことに気づかされます。
「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は実を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである』」(新約聖書マルコによる福音書4章26節以下)。昔は自動車もトイレもなかったからイエスは種でたとえたのです。大手企業のエンジニアは知りませんが、われわれ普通の人はどうして車が走るのかもわからずに車に乗っており、どうして電話がつながるのか、どうしてメールが届くのかも知らずにスマホもメールもZoomもしています。現代の科学技術に自らをゆだねているのです。
ある伝道者は高校受験のころ周囲にクリスチャンが多かったようで「ゆだねるのよ!ゆだねるのよ!」と言われて「そんなにゆだねて落ちたらどうするんだ」と思って必死に勉強したと言っていました。でもゆだねるというのは努力しなくなるという意味ではないのです。いまも私は先々のことを考えて必死で努力しています。その礼拝出席者数5人の教会も、昨年に実家に滞在したときには10人になっていました。ゆだねていますけど努力をおこたらない教会でした。「ゆだねる」って「周囲に信頼する」という意味なのです。そりゃ自分のことは自分で決めますけど、世の中は自分の努力とは無関係な事の割合がすごく大きいのです。努力しつつ、周囲に信頼して生きていきたいです。