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発達障害で義足に相当するもの

 (私の書くことはすべてフィクションですよ。)

 私の発達障害の診断がくだってすぐのころ。私もどう言ったらいいかわからなかったころの話です。ある人から「きみ、しゃべるとき、頭がふらふらしているよ。気づいてないと思うから教えてあげるけど、みっともないよ」と言われました。私は「気づいているけど止められないのです。私にそれを要求することは、足のない人に『歩け!』と言っているようなものです」と言ったところ、その人は勝ち誇ったように「義足がある!」と言ったものです。

 私の友人で、義足の人がいます。10歳のころ、骨肉腫で足を切断し、以来、義足です。義足で得しかしていないそうです。周囲の人はみんな親切にしてくれるし、障害者手帳で公共交通機関はすべて半額だし。障害者枠で仕事ができるし。得ばかりだそうです。このように「見てわかる障害」の人はかなり得をするようです。もちろん「義足で発達障害」という人もいるでしょうけど。私の母にこの話をしたときも「その人は受け入れるまで大変だったんじゃない?」と、やはり自然にその人に感情移入していました。自分の息子も障害者なのに、それはすっかり忘れているようでした。

 しかし、義足と発達障害の最大の違いは、もっと別のところにあります。足がない人は、義足を装着すると、普通の人のように歩けるのです!発達障害で「義足に相当するもの」は開発されていません。すなわち「これを頭に装着すると、普通の人と同じように考えられます」という装置。もしそういう装置があって、私が装着したらどうなるか?

 私は普通の(=多くの)人と同じように考えることができます。人並みのことはすべてできるようになり、日常に不便はなくなります。空気も読めて、人とのコミュニケーションにも問題はなくなります。その代わり、私は子どもに「おい勉強しろ」としか言わない普通の親になります。突出してできないことがなくなる代わりに、突出してできるところもなくなるのです。私が、勉強ができるのも「障害特性」ですから。普通は、自分にとって都合の悪いところだけ「障害」と言いますが、じつは発達障害ゆえに「強み」になっているところもあり、それは多くの場合「障害」とは言わないだけです。私はサインコサインもよくわからない、それでいて東大卒をうらやましがる、「普通の」人になります。その装置を装着すると。

 それはもはや「私ではない」と思えます。いまの私は、生きるにあたって、はなはだ大きい困難を抱えていますが、しかし、「義足に相当する装置」を装着してそれらが「改善」されたら、私は私でなくなります。こんな文章も書けなくなります。さまざまな「手続きの書類」は書けるようになるでしょうけど。

 そう想像してみると、やはり私はこのままでよい!と思わざるを得ません。いかに生きるのが困難でも…。

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