メリハリのなさ
「もっとメリハリをつけろ!」これを小さいころからどれほど言われたかわかりません。しかし、私は46年生きて来て、「私はメリハリがないほうが過ごしやすい人間なのだ」とようやく認識しつつあります。
これは個人差があると思います。あくまで私の特性です。きのうも、「本の校正」をしながらいろいろ「遊んで」いました。昔のオケのパンフレットを見て、四半世紀くらい前の後輩の演奏会のものを見つけました。当時の後輩で大学教授になっているのがいますので(大学の先生は名前とメールアドレスが公開してあるので連絡が取りやすい)、当時の後輩に連絡を取ってみると、当時の録音を聴かせてくれる仲間がいました。四半世紀ぶりにその演奏を聴きました。こんなことをやっているのです。気が散っているのかもしれません。しかし、この傾向は昔からありました。
高校3年の秋や冬のことを思い出します。この時期は大学受験で追い込みの時期ですね。でも、私はコーヒーを入れて持ってくる母の目を盗んで「内職」をしていました。こっそり楽譜を書いていたのです。オーケストラ曲のピアノ連弾用編曲の楽譜など書いていたことを思い出します。でも、結果として東大理科一類に現役合格しているのですから、ちゃんと結果を出していますよね?(そこから先はひたすら時間の無駄で何十年も来ていますけど。)
勉強を教えるときもそうです。「何時から何時まで」というのが非常に苦手です。勉強時間が終わってもずっと考えています。本日はこれから「算数・数学の個人指導」ですが、その「予習」も、「何時から何時まで」ではなく、ずっと考えています。こういう記事を書くのもそうです。アイデアは風呂のなかで出たりします。案を練っている時間も「何時から何時まで」ではありません。そもそもどんなことが記事のネタになるのか、自分でもわかりませんので、どこからどこまでが仕事であると言えないようなものです。
そもそも、仕事と遊びの区別がないのです。事務員だったとき、「朝8時から夕方4時まで」という「8時間労働」を経験しました。教員だった時代は、いわゆる「教員の長時間労働」が社会問題化する前であり、1日に12時間でも14時間でも働いていたものです。休日も出勤して授業の準備をしていました。しかし、それらはすべて無駄になっていますね。
学生時代、音楽をたくさん聴きました。ずいぶんCDにお金を費やしたものです。かなりお金の無駄をしたようですが、それは指揮者になったときに大いに役立ちました。まもなく指揮者はやめさせられましたが。したがって何が無駄なのか、どういうのが「必要経費」なのかもわかりません。いまの私には「聖書」も商売道具になっていますが、どれも趣味で購入したものばかりです。
そのようなわけで、メリハリのないのが私にとって自然なのです。こうしてだんだん自分の特性に目覚めていきます。やはり私に会社勤めは向いていない。好きなときに好きなことをやるしかないのだ。逆に私には「居酒屋でバイト」みたいなのができないのですから、こうせざるを得ないのです。メリハリのなさは私の特徴です。