かんべんして欲しい賛美歌と「主の祈り」の切実さ

過去にも苦手な賛美歌の話は2つほど書いていますが、本日も久しぶりに、かんべんして欲しい賛美歌を2曲、出します。


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「きたれ、きたれ、くるしみ、憂き悩みも いとわじ」(『わが主イェスよ、ひたすら』3節)と歌う賛美歌があります。こういう歌はかんべんしてほしいわけですが、一方で、礼拝でよく「主の祈り」というのを唱えます。イエスさまが教えてくださった祈りです。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。つまり「どうか苦しみは来ないでください」と祈れと主はおっしゃったのです。「きたれ、きたれ、くるしみ」と真逆です。で、どちらのほうが切実かというと「どうか苦しみは来ないでください」というほうがずっと切実な祈りであるわけです。

私はだいぶ「生活保護」といったものも視野に入ってくるようになるくらい困ってきました。しかし、二千年前には生活保護はありませんでした。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」というのは非常に切実な祈りだと気づいて参りました。「きょうの食べ物はあるか、あしたのぶんは考えられない」というくらい貧しい人のための祈りであったわけです。これも「主の祈り」の一節です。

そのイエスさまは、「人はパンだけで生きるものではない」(新約聖書ルカによる福音書4章4節)と言われました。これは、「人はパン(食べ物)がないと生きられない」という厳然たる事実を前提としています。ではなにがないと生きられないのか。もうひとつの賛美歌を挙げますね。

「有名なひとになることも、ひとのほめることばも、このこころをひきません。世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け」(『キリストにはかえられません』2節)。これもかんべんしてもらいたい賛美歌であるわけです。私は承認欲求のかたまりですし、「世の楽しみ」「世のほまれ」で生きています。食べ物以外に「世の楽しみ」「世のほまれ」がないと私は生きられないのです!イエスさまはまた「皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ」(同6章26節)とおっしゃっているわけですが、これは屈辱の中を生きざるを得ない人を励ますために言っておられると思うのです。そもそも私は16年前に、東大の院を出て中高の教諭になるのでさえ、充分に屈辱的でしたからね(これは決して中高の職員室では言えませんでしたが)。生徒さんにもよく「どうして東大を出てこんなところにいるのですか?」と言われたものです。それが、中高の教諭も務まらなくて事務員にさせられ、その事務員はもっと務まらなくて辞めさせられて、いまこんなにお金でも仕事でも障害でも困っているのは「屈辱」としか言いようがありません。本日は日曜日ですが、もはやリアルの教会には行けないくらい私のなかには「信仰」以上の「屈辱」があります。賛美歌よりも「主の祈り」のほうが切実です。どうかこれ以上こころみにあわせないでください!!!

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