「クリスマスとはキリストを礼拝するという意味です」

 もう何年も前のことになります。クリスマスのころでした。ある教会の掲示板に、説教題が半紙に墨で書かれていました。(いきなり話は脱線しますが、なぜ教会の掲示板は半紙に墨で説教題を書くのでしょうね。私の友人の若い牧師は、電光掲示板にしたい、などと言っていましたが。そうすれば、ずいぶん前から説教題を考えなくてすむし、礼拝の中継も映せるんじゃないかって。)ある年のクリスマス礼拝の(もしくはクリスマスイブ礼拝の)掲示だったと思います。説教題が書かれていました。右上に小さく「クリスマス礼拝」と書かれていたところの「クリスマス」という言葉に注釈があって、「クリスマスとはキリストを礼拝するという意味です」という言葉が添えられていました。私は、なんともいえない、嫌な気分になりました。まあ、教養を押し付けているから、嫌な感じがするのかな、と思っていましたが、きのう、奥田知志先生(←また出ました。よほど私、好きですね)の説教を聴いて、ようやく、そのときの違和感を言葉にすることができました。
 

 それって、暗に、世間で祝われているクリスマスは、にせものですよ、って言っていませんか?教会で行われているクリスマスこそ本物だと。つまり、悪い意味での「選民思想」(われわれこそは選ばれた民だ)が感じられるのです。それを、その「注釈」から感じ取った私は、なんともいえない嫌な気持ちになった、ということが、きのうの説教で、言葉にできました。


 20年くらい前、あるお寺の掲示板で、やはり同じようなやりとりになったことを思い出します。そこのお坊さんは、私に、「腹ぺこさんとは無関係のクリスマスが、世間でにぎやかに行われています」というふうにお書きでした。もちろん、世間のクリスマスさわぎをなげく文脈で語られたのです。そのときも同じようなことを感じましたが、むしろそのときは、私自身、その変な選民思想に酔っていたかもしれません。正確には酔っているまではいきませんが、ちょっとそういう特別な意識を感じたと思います。


 でも、クリスマスってみんなのものです。奥田先生の言われる通りです。この考えを徹底していくと、結局、葬式仏教がいちばんよい、という発想にもなるのですが笑。バランスが難しいですね。いや、バランスの問題か?


 うまくまとまりませんでしたね。すみません。このへんまでです。お読みくださりありがとうございました。

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