ひいきのアーティスト
私は、ストコフスキー(指揮者、編曲家)や、外山雄三(とやま・ゆうぞう。指揮者、作曲家)が好きです。ひいきしています。フルーティストでいうと、ニコレやデボストやパユは、ひいきしていますね。あまりにひいきしているので、ストコフスキーや外山雄三であるならば、なんでも絶賛してしまうのではないか、と思うほどです。(私の記事をよくお読みのかたなら、「外山雄三を讃えて」というシリーズがあるのをご存じかもしれません。あれは、「ひいきの引き倒し」の側面があることは自分でも否定できません。)
これは、プロの音楽評論家であっても、「ひいき」はあるみたいです。ある音楽評論家が、あるアーティストを「ひいき」していることって、けっこうあるみたいです。
ところで、私は、最近、ナクソス・ミュージック・ライブラリ(NML)という音楽サービスで、ハイドンの交響曲を、ぜんぶ聴きました。ハイドンの交響曲は、番号つきだけで104曲もあり、これはほとんど「マラソン」でした。(アダム・フィッシャー指揮オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団による演奏で聴きました。すばらしい演奏です!)そのことをあるメール友達に報告いたしました。その人は、ハイドンの交響曲を全部、聴いた人は少ないでしょう、全部聴いた感想は?有名でない曲でも、聴く価値のある曲はありますか?と聞いてこられました。私は、「たしかに傑作と言われる曲は、後期に集中しています(とくに93番以降のいわゆるザロモン・セットは、どれも名曲ぞろい)。しかし、初期、中期にも名曲があることは間違いない。しかし、聴いていて気になることは、これは『のちに大作曲家となったハイドンの若いころの曲を聴いている』ということである。これがたとえば、同時代の作曲家のヴァンハルの交響曲と比べても、ハイドンのほうがすぐれていると言えるかどうかはわかりません」、とお答えしました。
同じようなことはモーツァルトでもあるのでして、モーツァルトと同時代のマンハイム楽派の音楽では、ときどき、「モーツァルトが作ったのではないか」と思うくらい、モーツァルトっぽい曲があるのも事実なのです。あるとき(スマホもYouTubeもない時代です)、どこかで「牛にモーツァルトを聴かせると、牛はおいしい牛乳を出す」ということを聞いてきた人がいて、「牛にモーツァルトを聞かせると、いい牛乳を出すのだ!それ以外の音楽を聞かせてもいい牛乳は出さないのだ!これは科学的に証明されているのだ!」と強弁する人がいました。その話を聞いて私のあたまをかすめた音楽は、たとえばカール・シュターミッツのフルート協奏曲でした(いかにもモーツァルトが作ったみたいな、モーツァルトっぽい曲。この曲を聞かせても牛はいい牛乳は出さないのであろうか、と思ったわけです)。ずっとのち、スマホもYouTubeもある時代に、彼にカール・シュターミッツのフルート協奏曲を聴かせてみました(「この音楽を聞いても牛はいい牛乳を出さないの?」)。あろうことか、彼は、その音楽(シュターミッツの協奏曲)を、モーツァルトの曲だとかんちがいしました!
このように、「ハイドンだから」「モーツァルトだから」われわれは、名曲だと思って聴いているのかもしれない。私が、「ストコフスキー指揮だから」「外山雄三指揮だから」ひいきしちゃうのも一緒です。この現象は音楽だけにとどまらず、作家の文章とか、いろいろなものに当てはまると思います。たしかにハイドンやモーツァルトは(すぐれた作品は)すぐれていますが、ハイドンやモーツァルトの同時代の、(いまは)無名の作曲家の作品と、どれほど価値が違うのかは、わからないと思います。
どうも、この文章、うまく書けたか自信がありません。私の言いたいことが、なんとなく伝わったらうれしいです。この現象、なんていうんでしょうね。以上です。お読みくださり、ありがとうございました。