見出し画像

「詩編」は「感謝」と「ぐち」の両方が書いてあって正直だなあ

 旧約聖書に「詩編」という書があります。150編からなる詩の集まりで、聖書のなかで最もページ数の多い書です。よく「詩編は昔の讃美歌集だ」という説明を聞きます。確かに、これは音楽をつけて歌っていたのだという証拠みたいなものがあります。しばしば詩の最初に、これが音楽であることを意味する「表題」が書いてあるのです。例を挙げますね。「指揮者によって。弦楽器で。賛歌。歌」(67編1節)。このあと「詩」の本文が始まるわけです。

 しかし、この「詩編」と、現代の讃美歌集で、異なる点が少しあります。まず「長さ」です。私は学生時代、インターネット上で、ある友達と、「讃美歌の歌詞でしりとり」をしていたことがあります(ずいぶんヒマな院生だったものです)。あるとき、讃美歌の歌詞でなくて「詩編」を書いてみたことがあります。詩編を手入力してすぐに気がついたことが「詩編は現代の讃美歌に比べてはるかに長い!」ということでした。ひとつひとつがすごく長いです。よくこんなものを覚えて歌っていたものだ、と驚いてしまいます。

 もうひとつの点はより本質的ですが、現代の讃美歌が、悪い言葉でいえば「きれいごとばっかり」なのに対して、旧約聖書の詩編は「ぐちが多い、極めて正直」ということです。たとえば「主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう」(3編1節)とか、「主よ、なぜあなたは遠く立ち 苦難の時に身を隠されるのですか」(10編1節)とか、「わが神、わが神 なぜ私をお見捨てになったのですか」(22編2節)などです。最後のものはイエス・キリストの十字架上の最後の言葉としても有名です(新約聖書マルコによる福音書15章34節ほか参照)。こういう「神へのぐち」みたいなものは、なかなか現代の讃美歌では見られません。これについては、坂本直子さん執筆の、昨年(2021年)11月28日の若松英輔さんのオンライン講演会の記事で、以下のように書かれています。(リンクをはりますが律儀にお読みにならなくてだいじょうぶです。)「若松氏は、うめきや、すすり泣きこそが神が求めている本当の祈りであり、たとえ祈ることができない危機にあっても、神は私たちの傍を離れることはないと、詩編の言葉を引用しながら語った」。

https://christianpress.jp/wakamastueisuke1208/


 若松さんが具体的にどの詩編を引用なさったのかはわかりませんが、確かに、私の感覚では、少なく見ても詩編の言葉の2割か3割は「神へのぐち」です。かつて私は「旧約聖書の『エレミヤ書』はぐちばっかり」という記事を書き、また、「旧約聖書の『ヨブ記』はぐちばっかり」という記事も書きました。この旧約聖書の「詩編」もまた「ぐちばっかり」でありまして、(聖書に載っている順ではなく私が記事にした順ですが)「エレミヤ書」「ヨブ記」「詩編」というのは「旧約聖書の三大ぐち集」とでも言うべきものです。(以下にリンクをはりますが律儀にお読みになる必要はございませんよ。)




 一方で、詩編のなかには、「主に感謝せよ。まことに主は恵み深い」(118編1節)とか「私の魂よ、主をたたえよ」(103編1節)とか「主よ、まことの神よ 私の霊を御手に委ねます」(31編6節)など、感謝と賛美の言葉もたくさんあります。最後のものはこれもキリストの十字架上の最後の言葉として有名です(ルカによる福音書23章46節参照)。これらも人間の正直な気持ちです。

 人間のなかには「感謝の気持ち」と「ぐち」や「不平不満」の両方があります。私の日記にもその両方がしきりに書いてあります。その両方とも書いてある聖書の書物が「詩編」なのです。詩編は正直だなあ!

いいなと思ったら応援しよう!