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殺せ。殺せ。十字架につけろ
私はかつて中高の数学の教員でした。文科省の検定を受けているはずの教科書でさえ、たくさんの「ツッコミどころ」がありました。ほんの一例を挙げますと、小学校の算数の教科書は、根本的に「概数」の概念を理解していないのではないか、と思われます。それでも「間違っている教科書」の通りに教えて、その通りに答えないと、マルはもらえないし、いい中学校にも入れないのです。そのジレンマは常に強く感じていました。
私は徹底的なダメ教員でした。生徒からはなめられ、授業は崩壊し続けました。11年教員をした挙句、教員をやめさせられています。いま思えば、私はその学校で最もできない教員であると同時に、最も「できる」教員だったのです。圧倒的な学歴だけが唯一の証拠ですが、あまりに聖書に詳し過ぎる人はかえって牧師が向いていないのと同様、あまりに数学に詳し過ぎる人は周囲から理解されずにダメ教員として排除されるのでした。
ときどき「モーツァルトは現代に生きていたら、ものすごい人気作曲家だったろう」という人がいます。私にはそうは思えません。モーツァルトが現代に生きていたら、やはり周囲から理解できないような前衛的な音楽を書いて、失敗の人生を歩んでいるのではなかろうか。自分をモーツァルトに例えるなって?いやいやモーツァルトは当時の人から見れば典型的な失敗者ですよ。現代人があまりにも「モーツァルト=大作曲家」と思い過ぎているだけなのです。私も含めて、モーツァルトの同時代の理解者にはなれないだろうと思います。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている。そして、『もし先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流す側には付かなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫だと、自ら証明している」(新約聖書マタイによる福音書23章29節以下)とイエス・キリストは言いました。まるでモーツァルトの同時代人だったらモーツァルトの理解者であったかのような言いかたではないですか。「いつだってわすれない エジソンはえらい人 そんなの常識 タッタタラリラ」という歌詞もありますが、小学校を3か月で退学になったエジソンの伝記が現代の小学校の図書館に推薦図書として置いてあることについて、誰も何も思わないのでしょうか。
そのイエス・キリストはまさにその数日後に処刑されています。群衆は「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫びました。会いに行くキリスト教会牧仕のともみんとその仲間たちは(私も含めて)「イエスさま、大好きー!」と言っていますが、じつはそれは現代だからであって、当時の群衆であれば「あいつを十字架につけろ!」と叫んでいるはず。私も含めて。
珍しく受難節に「キリストの受難」について考えました。われれれの合言葉は「イエスさま、大好きー!」なのかそれとも「殺せ。殺せ。十字架につけろ」なのか。後者なのではないかと思うわけです。