見出し画像

旧約聖書に親しみたい

 以下に私の書く記事は、「旧約聖書に親しみたい」と思っておられるかた向けの文章です。ちょっとマニア向けと言いますか、クリスチャンであっても「新約聖書はぜんぶ読んだことがあるけど、旧約聖書をぜんぶ読んだことはないなあ」というかたは意外と多いみたいですので、そういうかた向けに書くつもりです。聖書というものは「旧約聖書」と「新約聖書」から成り立っています。そして「聖書を読んでみたい」というかたには、私はまず新約聖書からお読みになることをおすすめしておりますので、「旧約聖書に親しみたい」というニーズがどれくらいあるのかもわからずにこの記事を書いています。はじめて聖書をお読みになるかたには、以下の4つのクリスチャンプレス(クリプレ)に書いた記事をおすすめいたしますので、どうぞそちらをご覧くださいませ。



 それなのになぜあえて今回のような記事を書く気になったかと言いますと、「新約聖書より旧約聖書のほうが読みづらい」ということがあると思われるからなのです。分量も、旧約聖書というものは、新約聖書の3倍くらいあります。そして、新約聖書には旧約聖書の引用がひんぱんにあり、さらに、新約聖書には「エデンの園」も「バベルの塔」も出て来ないわけです。これらは旧約聖書の「創世記」に出て来るわけですが、こういう物語は新約聖書だけを読んでいても出会うことのできない話であるわけです。そこで、こんな記事を書いてみる気になりました。よろしければお付き合いください。

 自己紹介をいたしますと、私は聖書の専門家でもなければ、神学の専門家でもありません。学生時代の専門は数学でして、聖書にかんしてはまったくのしろうとです。ただの聖書通読マニアです。ただし、聖書を通算で17回通読しています。いろいろな人に出会いましたが、「聖書を17回以上読んだことのある人」には出会ったことがありません。したがって、私に専門的な話はできないのですが、逆に専門的な話ができる人はたくさんいますので、ここでは、「しろうとが旧約聖書に親しむには」という視点で話を書こうとしています。教義の話は置いておきます。説教くさくならないように気をつけて書こうと思います。ただし無自覚的な上から目線の文章になってしまったらごめんなさいね!

 上の「クリスチャンプレス」の記事と重なることを書くかもしれませんが、多くのクリスチャンは、聖書を「通読」はしません。ではどうやって聖書に親しんでいるかと言いますと、毎週、礼拝で読まれる聖書の箇所を読んで、自然に有名な話から知って行っているだけなのです。そして、それで知識としては充分です。だいたい1年くらい教会に通ったら、充分な聖書の知識は得られますし、それに、わざわざ教会に行かなくても、インターネットの情報だけでも充分に詳しくなれます。私は司書の経験もありますが、聖書というものは図書館の「参考図書」のところに置かれていました。かんたんに言うと、なにかを調べるための本だということです。辞書や辞典のような扱いですね。通読するものではないわけです。(私の母方の祖父は、「辞書を通読する」という趣味がありましたが、そういう人はまれです。)礼拝で聖書が読まれるときも、聖書のごく一部がチョイスされているのです。しかし、われわれは旧約聖書を「通読」しようとしています。ですから最初にお断りしたかったことは「本来、通読するようなものではないものを通読しようとしているのです」ということでした。

 どうしても最初にこういう「お断り」のつまらない文章が続くことをおゆるしいただかなくてはならないと思います。すみません。私はプロテスタント教会に属する人間です。プロテスタントではごく普通に「旧約39巻、新約27巻、あわせて66巻」という言いかたをします。聖書は「創世記」「詩編」「ヨハネの黙示録」など、いくつかの書によって構成されていますが、ある人から(父ですが)「聖書ってこれで全部か?」と聞かれたことがあります。私の知る限り、新約聖書が27巻であるのは、どの教派でもそうみたいです。しかし、旧約聖書は教派によって少しずつ違うのです。ひとくちに言うと、「カトリックのほうがやや多い」ということになります。正教会がまた違うみたいですが、詳しくないので正教会の説明はパスさせてください。聖公会の説明もパスさせてください。旧約聖書はユダヤ教の正典でもありますが(というか本来はユダヤ教の正典です)、ユダヤ教にも知り合いはいませんのでパスです。「39巻」はプロテスタントの数え方です。カトリックはこれより少しだけ多いです。その「カトリックでは聖書だけれどもプロテスタントでは聖書でない」部分を、日本聖書協会では「旧約聖書続編」と呼んでいます。「旧約聖書外典」とも言います。聖書にはさまざまな日本語訳がありますが、日本聖書協会の『聖書 新共同訳』と『聖書 聖書協会共同訳』では、「旧約聖書続編」が付いているものと付いていないものとがあります。ユダヤ教が正典としているヘブライ語の聖書を(プロテスタントで)「旧約聖書」と呼んでいるのです。詳しくは、その道の専門の人の説明にゆずることにします。では全部で何巻あるのか、というと、これも数え方がさまざまあり、なかなか「これです」と言えるものがありません。つまり、新約聖書と違って旧約聖書というものは「ここからここまでが聖書です」という境目があまりはっきりしないのです。ここでは、一般にプロテスタントが呼んでいる「39巻」のことを「旧約聖書」ということにしましょう。私自身は「続編」も7回の通読の経験があり、続編を含めて説明を書いてもよいのですが、私自身がプロテスタントの人間でありまして、続編の読みかたは自己流にならざるを得ないこともありますので、そのようにさせていただきますね。いろいろな日本語訳聖書があることは先ほど申しましたが、『フランシスコ会訳』と言われるカトリックの聖書では、「続編」に相当する部分が旧約聖書のなかで「カトリックの本来の位置」に置かれています。しかし、その続編に相当する部分も、日本聖書協会が「旧約聖書続編」と呼んでいるものとは微妙に違ったりします。ようするに相当ややこしいので、日本語で「聖書」という本を買ったときにもれなくついてくる部分だけを相手にしようという、そういう方針です。よろしくお願いいたします。

 ここから少しマニアックな話になります。ここまでも充分にマニアックだったかもしれませんが、以下はなかなかインターネット検索でも出ないくらいのマニアな話になります。この段落を飛ばし読みしていただいても結構です。さきほどから、プロテスタントでは旧約聖書は39巻と申しておりますが、それならそれは宗教改革のルターのときからだろうというとそれは違うということです。私が最初にそれに気が付いたのは、ブラームスという19世紀ドイツの作曲家の「ドイツ・レクイエム」という作品の日本語歌詞を見たときです。これは、ドイツ語訳の聖書から、ブラームスが自由に言葉を引用して歌詞とした声楽曲ですが、旧約聖書続編からの引用が2箇所ほどあるのです。19世紀ドイツですから、ルターよりはるかにあとです。これは、あるクラシック音楽マニアのクリスチャンの友人がルター訳ドイツ語聖書を持っていて、その目次を写真で送ってくれまして、たしかに続編が載っていることをこの目で見ました。(その友人は、先日、記事にした、自殺した友人なので、もうその写真を送ってもらうことはかないません。)このことは、なかなかインターネットでは解決しませんので、ある大きな図書館に行きました。私に司書の経験があることは書きましたが、司書というものは調べものに付き合ってくれるものです。私はダメ司書でしたが、「司書とは調べものを手伝ってくれる人だ」ということは知っていました。(わからないことを調べるときは、図書館に行って、司書に頼るという手がありますよ!)さすがに大きな図書館の司書さんは有能でありまして、いくつかの本を挙げてくれました。それらを読み、だいたい以下のようなことを理解しました。ここで、この記事が学術的なものであるならば、必ず参考文献を挙げるべきところですが、これを調べたのはだいぶ前でして、いまとなってはどんな本であったか挙げることは出来ません。すみません。著者は覚えております。関根正雄、土岐健治、加藤隆の3人です。関根正雄の本は『新訳 旧約聖書』のどれかの巻でした。とにかくそこからわかったことは、19世紀まで、プロテスタントの聖書でも、続編は含まれていたということです。19世紀に、続編を含まない(現代のプロテスタントの聖書のような)聖書がいろいろな国の聖書協会から出て、その時期が日本の明治時代と重なっていまして、それで日本の最初の聖書は、続編を含まない(旧約聖書39巻の)タイプの聖書になったというわけです。それが『口語訳』とか『新改訳』などプロテスタントの聖書の伝統として引き継がれてきたのです。このこと(現代のプロテスタントの聖書の標準スタイルは19世紀以来だということ)を知らないプロテスタントの牧師さんもかなりたくさんおられます。どうやら神学部でこのことを習わないらしいのです。先ほども申しましたが、インターネット検索でもほとんど出て来ない情報です。だから相当マニアックなことを書きましたが、それくらい、現代の(プロテスタントの)「聖書」の標準スタイルははっきり「旧約聖書は39巻」という認識なのです。(ここに私が書いたことは、プロの牧師でも知らない人が多いですので、うかつに牧師の前でここに私が書いたことを言わないほうがいいですよ。私の書きかたが誤解を招く可能性があるのは、「カトリックでは続編まで含めて聖書」というのは牧師であれば必ず知っている当然の常識であって、「プロテスタントの聖書が現代のスタイルになったのは19世紀以来」という話が「常識でない」という点です。とにかくややこしいのです。そして私は専門家ではないので、これ以上は踏み込めないのです。私自身のなかでは決着しています。「あやしい話」ではありません。「ややこしい話」なのです。)

 長々とすみませんでした。とにかくその「39巻」だけを相手にしましょうと言っているだけです。失礼しました。

 まだ前置きが少しあります。ユダヤ教のヘブライ語聖書と、キリスト教の旧約聖書で、各書物(「創世記」とか「詩編」とか)の並べ方に違いがあるという点です。これも、私はユダヤ教の聖書を知りませんので、あくまで本屋さんで売っている(キリスト教の)「旧約聖書」の順番通りに並んでいる聖書を相手にすることにいたしますね。こういうことに興味のあるかたは、そういうサイトはいくらでもあると思いますので、そちらにお任せいたします。とにかく皆さんが「旧約聖書」と呼んでいるものを読んでみましょうと、ただそれだけのことを言うのに、こんな前置きをせねばなりませんでした。本題に入りますね。

 なぜ、こんな記事を書く気になったかと言えば、旧約聖書の通読は「挫折しやすい」と思われるからです。先ほども書きましたが、クリスチャンでも、旧約聖書をぜんぶ読んだ人はなかなかいないものです。私のあるノンクリスチャンの友人で、勉強のために聖書をすべて読んだという人は「旧約聖書については、ある程度の概要を知ってから読んだほうがよい」と言っていました。私もそう思います。それを書こうとしているのです。(こんな記事に需要はありますかね?)

 どこから読み始まるのがいいかと言いますと、これは頭から読むしかないだろうと思います。冒頭にある「創世記」から順に読むのです。なぜかと言いますと、新約聖書とは違って、旧約聖書はひとつの話がかなり長く、書をまたいでストーリーが続くからです。新約聖書では、一話で終わる話が多いです。だいたい一回の礼拝で読まれる福音書の記事が「一話」という感覚ですね。それよりはずっと話の単位が長いのです。「創世記」から「列王記下」までがひとつの長い話です。この点だけを取っても、どうしても頭から読むしかないと思われるわけです。

 最初の「創世記」は、ストーリー性があって読みやすいと思われるうえに、有名な話がたくさん含まれています。「世」を「創」る「書」と書く通り、最初は天地創造から始まります。アダムとエバの話が出てきます。(聖書には「アダムとイブ」とは書いてなくて、「アダムとエバ」ですね。)エデンの園の話です。ノアの箱舟の話も出てきます。洪水の話です。バベルの塔の話も出ますが、聖書ではこの話は一瞬で終わります。アブラハム、イサク、ヤコブという、新約聖書でもよく見た名前の人たちが出てきます。私はコーラン(クルアーン)の日本語訳の通読の経験もありますが、そこには創世記の「ヨセフ物語」をもとにした章があったと記憶しています。一族がエジプトに行って、ヨセフが死ぬところまで描かれて創世記は終わりになります。

 つぎが「出エジプト記」です。モーセが出てきます。「エジプト」を「出」る話です。海が割れるシーンは有名だと思います。しかし、そのあと、有名な話はもう出なくなります。モーセがシナイ山で十戒をもらう話から、だんだんストーリー性がなくなってきて、「律法」と言われる「おきて」の話になります。新約聖書にもよく出てきた「律法」です。幕屋と言われるものの作り方が、細かく記されます。この旧約聖書というものは、現代なら「図」で表すであろうものも文章で書いていますし、現代なら「表」にするようなところも文章で書き、「地図」も文章で書き、「箇条書き」にするようなところも文章で書くため、読むのに骨が折れます。だいたいこのへんで多くの人が挫折するのだろうと思います。とにかく「おきて」が続くのです。「レビ記」はずっと律法です。つぎの「民数記」の途中で、モーセ一行がようやく動き出しますが、「ストーリー」なのか「おきて」なのかよくわからないままに、話が続いていきます。どうしてこんなものを読まなければならないのか、疑問に思われるかもしれませんが、とにかくこの記事は、旧約聖書に親しむことを目標にしたかたを対象に書いているつもりですので、そのつもりで引き続き書きますね。さきほど述べたフランシスコ会訳という聖書は、ほどよい注とじゃまにならない程度の地図などがあって、読む人の興味を損なわないように気を配っているように感じられます。そういう聖書で読むのもいいのかもしれません。聖書の翻訳のチョイスはお任せいたしますが、私が慣れ親しんでいるものは「新共同訳」です。「聖書協会共同訳」も2回の経験があります。たくさんの誤植を見つけました。「新改訳2017」の経験もあります。「口語訳」も3回の経験があります。「文語訳」も読みました。計17回の経験があるわけですが、読んでいて頭にインプットされてしまう大きな違いは固有名詞ですね。「新共同訳」と「フランシスコ会訳」は(最終的なバージョンは)同じであり、「聖書協会共同訳」はだいたい同じで少しだけ違います。「口語訳」はだいぶ違う感じですが、世界史の教科書は「口語訳」に準じていると思います。

 それで、「申命記」に入りますと、これはモーセの最後の説教であり、また律法になります。こんな古いおきてを読んで何の意味があるのかよくわかりませんが、かくいう私もなんだかんだ言って何回も読んでいますので、まったく意味のないことをしているわけではないことは言えると思います。そして、モーセが死ぬと、「ヨシュア記」となり、ようやくストーリー性が回復します。もう「おきて」ではなくなりました。約束の地に入ったイスラエルの民が、土地を征服する物語です。だいぶ残酷な話もあるのですが、大目に見てくださいね。ヨシュア記の後半は土地の分配の話です。「士師記」(ししき)は、「士師」というリーダーたちの話です。ドラマ性があって、律法の羅列よりはずっと読みやすいのではないかと思います。最後にちょっとひどい話が2つほどあって士師記は終わりとなり、「ルツ記」をへて「サムエル記上」「サムエル記下」「列王記上」「列王記下」があります。これは王の話でありまして、初代の王がサウル、つぎの王がダビデです。ダビデというのは有名かもしれません。「ダビデ像」というのは、この聖書に出て来るダビデのことなのだということは私も聖書を読むまで知りませんでした。あんなに筋骨隆々なのかどうかは知りませんが、ダビデが出てきます。つぎにソロモンという王が出てきます。シェバの女王が来る話はご存知のかたがおられるかもしれませんね。私は聖書を読むまで知りませんでした。聖書では一瞬の扱いです。どこをおもしろいと思うのかは、かなり個人差があると思いますので、私は立ち入らないことにいたしますね。そこからのちは、王国が南北にわかれまして、それぞれの国に王が現れます。これも現代の人なら「年表」で表すところを、文章で書いてあるため、どの時代のどの王の話なのかは、極めて分かりづらいです。エリヤが登場します。新約聖書であれだけ出て来ていた預言者のエリヤがついに現れるのです。エリヤは列王記の上と下をまたいで活動し、天に昇っていきます。どうも、新約聖書の時代は、「生きたまま天に昇った人は、また来る」と思われていたようで、それでさかんに新約聖書にはエリヤが出て来るのだと思われるのですね。イエス・キリストが再び来るという信仰も、同様にしてイエスが復活ののち天に昇ったため、再び来るという信仰になったのではないかと私は思っています。(私だけでなく多くの人が思っているかもしれませんが。)イスラエル王国が滅び、ユダ王国も滅ぶところで「列王記下」が終わります。バビロン捕囚と言われるものです。私は世界史を学んだことがなく、残念ながらこの話を「歴史的に」解説する力がありません。

 つぎに「歴代誌上」が始まりますが、なんとここで話はアダムに戻るのです。「復習」になるのです。名前の羅列が続きます。私のこの「旧約聖書ダイジェスト」の記事も、結局、ストーリーを短縮して紹介しようとしますと、どうしても名前の羅列になってしまいます。それは歴代誌を書いた人も同じようでして、ひたすら名前の羅列でここまでのおさらいをするわけです。しばらく人名の列挙に付き合わねばなりません。しばらくすると、読んだことのある話が再び出て来ます。少しずつストーリー性が戻って来ます。「歴代誌上」「歴代誌下」の著者はどうやら音楽に興味のある人らしいことがわかってきます。ときどき歌とか笛とかラッパとかの話が出ます。引き続いて「エズラ記」と「ネヘミヤ記」に入ります。バビロン捕囚から戻って来た民の話です。エズラというのは大変なスターらしいことがわかります。「エズラ記」「ネヘミヤ記」あたりを読んで感じることは、とても正統派の意識が強く、排他性が高いなあということです。つぎの「エステル記」はかなり独立した話で、そのつぎの「ヨブ記」は完全に独立した話です。前にちょっと述べた、ユダヤ教の聖書との「順番の違い」ですが、このように話が独立していれば、順番の入れ替えは可能になります。ユダヤ教の聖書でも、「創世記」から「列王記下」まではひとつの話なので動かせません。そのつぎが「詩編」です。これは詩集です。現代でいえば讃美歌集なのでしょうが、現代の賛美歌と比べると、著しく長いです。よくこのようなものを覚えて歌っていたものだと思わされます。その次が「箴言」です。これは格言集です。とくに後半に入ってからはひたすら格言が並んでいる状態になります。ひとによっては「箴言」を好んで読んでいます。「聖書で最初に読むべき書」として「箴言」を挙げる人がときどきいるほどです(私はそう思いませんけどね。上の記事にもあります通り、聖書を読むならまず「新約聖書」、そのなかでも「福音書」、そのなかでも最も短い福音書である「マルコによる福音書」をお読みになることをすすめたいですが)。続いて「コヘレトの言葉(伝道者の書)」があり、これも人気の高い書です。こういうのが出て来ますから、最初のほうの「レビ記」あたりのひたすら律法が続くあたりも読み続ける価値があると思われます。「雅歌」というものがあったのち、「イザヤ書」という預言書があり、ここからまた時代が戻ったということがわかります。列王記下のどこかに戻ったことがわかりますが、とにかく1回目からそこまで気にして読むことは困難ではないかと思います。かなり抽象的になります。このイザヤ書から、旧約聖書のラストまで、預言書が続きます。新約聖書も、前半は物語性が強く(福音書、使徒言行録)、パウロの手紙から抽象的になるのを思い出します。預言書の並べ方も、おおよそ長い順なのではないかと思われ(だいたいですよ)、それもパウロの手紙がおおよそ長い順に並んでいたのを思い出します。この預言書の連続というのは、かなり抽象的でありまして、例外的に「ダニエル書」の前半と「ヨナ書」がストーリー性を持っているのを除くと、意味のわからないものが多いです。歴史のどこに位置づけられるのかも読んだだけではわからないものです。たまに新約聖書に引用されている言葉が出て来ますので、新約聖書をご存知のかたならピンとくる場合もあると思います。そのまま最後の「マラキ書」まで行って、とくに感動的なラストが待っているわけでもなく、旧約聖書の通読は終わります。ですから、やはり「通読するようなものではなかった」ことが明らかになるわけです。ごめんなさいね、ほんとうにこんな記事に価値があるのか、私にはわかりません。旧約聖書って、「聖書の主人公」みたいなイエス・キリストが出て来ませんしね!

 山我哲雄さんという有名な聖書学者がいます。山我さんの生きざまを見て思うことがあります。山我さんは若いころ聖書の研究をしていて、あるときキリスト教の洗礼を受け(=信者になり)、引き続き聖書の研究をして今日に至っています。「聖書の研究って、信仰を持っていないとできないのかな?」。そんなことはないはずですが、考えてみると私がこれだけ繰り返し聖書を読むのも信仰ゆえの行為であり、ここで「続編」の説明をしなかったのも、私の教派がプロテスタントで、まず教会で続編が読まれることがないからです。どう読んでいいのかわからないのです。「読者に教義を押し付けることのないように」と思いながら書いてきましたが、どうも聖書というのは信仰の書らしいですね。「聖書」に特別な思いを持っておられるかたが多いことはだんだんわかってきました。「聖書の通読」というと「修行」のように思われることもあり、それでいうと私の「17回読んだ」というのは、ひたすら尊敬されてしまうというのか、むしろ尊敬を通り越して嫌味に取られるくらいなのです。こんなに聖書に詳しいと牧師からもけむたがられることもありますし。「教会の文脈で聖書を読みたくない、教会の権威や聖書の権威と無関係に聖書を読みたい」と思っておられるかたもおいでになります。しかし、歴史的にも、そういう試みがしばしば、新たな「権威」を生み出してきたということも言えます。ひとつだけ例を挙げますと、矢内原忠雄の聖書研究会は、矢内原忠雄が権威になっていたということを、若いころに矢内原忠雄の集会に通っていた土居健郎が後年に書いています。人間って何かを権威にしないと生きられないのでしょうか。私自身は、教会に通うようになって、ある程度してから、ようやく聖書を読むようになりました。たったいまも、そのときに買った、生まれてはじめて読んだ新共同訳聖書が手元にあります。私は、最初から教会の文脈で聖書が読めたことはよかったことだと思っています。結局、私の言いたいことは、「聖書だけ読んで何かわかるのだろうか」ということになります。

 私は、聖書に特別な権威があるとは思っていません。そう思えるのは、よく聖書を読んだからかもしれません。聖書が権威を持ってしまうことの危険性は、聖書そのものが言っていることでもあります。新約聖書が「律法」というものに対して持っている複雑な心境…。その意味でも、聖書を読む価値はあります。お読みになればお分かりいただけますが、聖書って首尾一貫はしていません。そこが聖書のよいところだと思います。さまざまな読みかたがあり得ます。ですから、この記事をお読みいただくよりは、聖書そのものをお読みになったほうがいいような気がするのですが、とにかく旧約聖書というのは通して読むのはきついものですから、私なりに概要を書いてみたという次第です。まず聖書というものに興味をお持ちのかたには、いきなり旧約聖書ではなく、新約聖書からお読みになるのをおすすめしたいと思いますが、これは旧約聖書に親しみたいというかたへ向けての記事でした。なにかの参考になりましたらありがたいです。(いま自分でここまで読み返してみましたが、やはりあまりおもしろくはない記事ですね。ごめんなさい。)

いいなと思ったら応援しよう!