説明可能か、理解可能か
古い話をしますよ。私は数学(位相幾何学、トポロジー)を専門とする大学院生でした。私が大学院生になった1999年、3次元ポアンカレ予想という非常に有名な問題は未解決でした。まもなく解決されるだろうと言っている人は(私の指導教官も含め)いろいろいましたし、実際に「証明された」という「誤報」はときどき入って来ていました。でも、2003年に出たプレプリント(プレプリントとは、出版される前の論文のことです。実際には査読をへて論文雑誌に載るのですが、それには少し時間がかかるため、最新の研究の成果を知るには、プレプリントを読む必要があります)は、どうやら「本物」らしいとうわさされ、2004年のことだったと思いますが、当時の3次元多様体論の第一人者であられた東工大の小島定吉(こじまさだよし)先生が、東大で、90分の、そのペレルマンのプレプリントの紹介をする講演をしました。私はまだ大学院生でした。すなわち、私がトポロジーの大学院生をしている間に、3次元ポアンカレ予想は肯定的に証明されたわけで、あとから、貴重な歴史に立ち会わせていただいたとの思いを強くしました。
きょう言いたいのは、直接、ポアンカレ予想の話ではありません。こういうのを、どうやって知らない人に説明できるか、という話です。
2006年に私は就職しました。そして、2006年に、NHKスペシャルだったかもしれませんが、この予想について、一般人向けに紹介する番組が放送されました。ポアンカレ予想の「一般人向け説明」を見聞きしたのは、このときだけです。しかし、つい最近になって、ある若い仲間が、ポアンカレ予想について一般向けの本を読んだ感想を言ってきましたので、ちょっと思い出しました。彼は、ポアンカレ予想は、宇宙の形に関係があるらしいと読んだ、と言っていました。たしかに、その番組でも、そういう説明をしていたと思います。ほかの(一般の)人からも聞いたことがあります。でも、私の知る限り、(3次元)ポアンカレ予想は、宇宙の形の問題ではないのです。これは、どうやら、NHKが(?)一般の人にもわかるように生み出した苦肉の策というか、方便であると言えると思います。
私の知っている3次元ポアンカレ予想は、「単連結な、閉じた3次元多様体は、3次元球面だけだろう」というもので、このステートメント(主張していること)は、このようにかなりシンプルです(数学の世界では、もっと長く複雑なステートメントのほうがずっと多い)。もちろんというか、私が証明を理解しているわけはありません!(2004年の小島先生でさえ、論文の冒頭から、なぐられたみたいで、まったく読めないということをおっしゃっていましたしね。)それはともかく、ステートメントだけなら、私でも理解できます。しかし、これを、なにも知らない人に説明できるかどうか。
結論から申しますと、これはとうてい一般の人に説明できるようなことではないと思います。まず「単連結」。これは、「基本群が自明」というふうに説明されますが、では、基本群とはなにか。これは少なくとも位相空間というものを知っていなければちゃんと理解できませんし、それに「群」についても知っていなければならないではないですか。NHKは、確か、ひも(つな?)を宇宙(やっぱり宇宙が出て来ましたね)に輪っかのように広げて、それをどのように手元にたぐりよせても、どこにもひっかからないで手元に持ってこれる、というふうに説明していたと思います。なるほど、それなら一応、単連結を説明できたことになるのかもしれない。でも、どこまでちゃんと説明できたのかなあ。
それよりも説明ができないのが、「閉じた3次元多様体」とか「3次元球面」です。まず「多様体」をどう説明するか。これ、私の大学では、学部の3年生の、数学に特化した学生が、半年かけて必死に学ぶものでしたよ。「多様体」について、私がものすごくかみくだいて説明させていただけるなら、たぶん以下のようになるでしょう。すなわち「一部分だけ見ると、だいたいユークリッド空間(普通の空間)みたいに見えるもの」。ね、これでは通じないでしょう。ようするに、多様体ということを学ぶのにも、専門の学部に行って、何年も修行を積まなければわからない。ところが、もしかしたら、世の中の多くの人は「説明されればわからないことはないはず」とでも思っておられるのかもしれない。だから「宇宙の形」という「方便」が出て来るのです。たしかに、宇宙は3次元多様体でしょうから(それさえもわからないといえばわからないですけど、3次元多様体だと信じられている)、うそは言っていません。でも、「ポアンカレ予想は宇宙の形と関係がある」というのは、申し訳ないけど違うと思いますね。
このように、世の中には「説明不可能なこと」そして「理解不可能なこと」が存在する、ということは、忘れてはならないことだと思います。私はトポロジーを専門とする大学院生でしたから、ポアンカレ予想の(証明は当然として!)ステートメントを伝えるにしても、たとえば私の専門を伝えるにしても、一般人相手には、絶望的であることは承知していました。その、若い仲間が言っていたことからもわかる通り、あれから20年近い歳月がたちますが、当時からポアンカレ予想については、一般人のあいだでは、「宇宙の形」という「方便」が、いまだに通用しているようです。繰り返しになって恐縮ですが、私が言いたいことは、ポアンカレ予想にかんする誤解のことではなく、おそらく世の中の人が思っている、「説明されれば理解できる」という誤解のほうです。これは、私自身がトポロジーを専門とする学生であったことから、たとえばポアンカレ予想のステートメントだけでも、一般の人に説明するのは絶望的であること(何年も専門の修行をしないと理解できない)を「実感として」知っているため、わかることですが、おそらく私の専門外であるほとんどのことについても、同様なことがあるのであって、世の中には「説明できないこと」したがって「理解できないこと」があるのです。
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