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「論破」より「なさけ」
私のことを「文章はうまいし、義務教育のよくない点も完璧に説明していて反論できる人はいないレベルです」と書いてくれたフォロワーさんがいます。ありがたいことですが、そんなに私の「説明」は「完璧」だろうか。そこで、この言葉をきっかけに「論破」ということについて考えました。
世の多くの人が「論破」が好きであることは知っています。論破すると自分が賢いような気持ちになるのでしょうか。
私の友人で、三浦綾子のナントカという本を貸してきた人物がいます(彼はクリスチャンです)。書名は忘れたのできちんと書けずにすみません。その本のなかで三浦綾子はひたすら「人はみな罪人(つみびと)である」ということを、理詰めで説明しようとしていました。(「人はみな罪人である」という主張には反論する気はありません。ここで言いたいのは三浦の論の持って行き方です。)三浦本人も自分は理詰めのつもりですし、本を貸してきた彼も「三浦の論は完璧だ」と思っているから貸してきたのです。しかし、私は、「数学」という「論理そのもの」のような学問を修めてきたためか、もっともそれを言えば私が人一倍「論理」の人間であるから「数学」という学問を選ぶことになったのか、どちらだかわかりませんが、とにかく私には三浦の論はあちこちで「破綻」しているのがよくわかりました。そして著者の三浦綾子自身が「自分の論は完璧だ」と思っていることもよくわかりました。私には世の中で通用している論理とはその程度であることが見えています。(彼もだったらその本を私みたいなクリスチャンに貸すのではなくクリスチャンじゃない人に貸してみろよ!と言いたくなりますが、まず彼自身が典型的に空気を読むタイプの人であったため、こういう本をクリスチャン以外の人に貸すような「非常識」をしない人だったのです。)
「ディベート」みたいなものをさかんに学校教育で行うようになったのは、おそらく私が高校生くらいのとき、すなわち30年前くらいからではないかと思います。これも「論破」を教えている教育みたいなものです。私が中高の教員であったときも、しばしば「ディベート」はあったものです。(もっとも私の学校で行われていたディベートは「制服の是非」みたいなつまらない話題が多く、個人的には「ラーメンは味噌か醤油か」といった「くだらない」話題のディベートがあってもいいなあと思っていました。多くの学校でそういうディベートが普通にあるのなら私の世間知らずであってごめんなさい。)これも私には多くの場合「お互い論理の破綻した者どうしの対決」に見えていました。
ツイッターをやっていたときも思ったことです。しばしば「言い争い」が起きていました。しかし、私にはこれも「お互い論理の破綻した者どうしの対決」に見えていました。私に反論をふっかけてくる者もいましたが、大概は相手のほうが論理が破綻しているので、私は誰ひとりとして「ブロック」をしたことはなく、冷静に反論できました。反論する間でもなくスルーでもいいのですが。そんな例は最近もいくつか、このnoteの記事で紹介したことがあります。いちいちリンクをはりませんけれども。私には非売品の著書がありますが、あれを非売品にした大きな理由として、私は傷つきやすいタイプなので、知らないところで知らない人が買って読んで、Amazonなどにくそみそのレビューを書かれたら立ち直れないのではないかと思ったというのがあります。今ならそのようなことは思いません。ツイッターの経験で、私は「文面で来るのなら」相手の非論理性を冷静に見極めることができるので、なにも怖くないことがわかったからです。とにかくツイッターにしてもYouTubeのコメントにしてもなんにしても、論理的に破綻した議論が非常に多いことは確かだと思います。
小学校の教科書には「模範的な児童」のキャラクターが登場します。「だいちさん」「さくらさん」「かいとさん」みたいな感じです。教科書だから当たり前なのですが、みんな的を射たことばかり言います。たとえば
だいち「そういえば腹が減った」
さくら「ポッキー食べたい」
かいと「えー、オレはプリッツ」
というような会話はしません。しかし、たとえば上記のような会話があるほうがリアルには自然なわけです。人間というものはとんちんかんなことも言うのです。この論にいきなりこの部分が入っていることも「おかしい」のかもしれませんが、そこまで含めて人間なのです。ほんとうは人間って論理では動いていないと思います。
ある仲間(上述の、三浦綾子の本を貸してきた彼ですが)は、私に「きみの言うことは突っ込みどころが満載だ!とても『数学』という論理の学問を修めてきた人間の言うこととは思えない!」という「決めぜりふ」をしばしば言ってきました。私はひそかに、いや学問というならばどの分野でも論理が大切にされるのでは?と思っていました。もっとも私がちゃんと修めたと言える学問は数学だけなので、他の分野がどのくらい「論理的」なのかは知りませんでしたが(彼の専門は物理学)。彼はまた加藤常昭という牧師の大ファンでした。加藤常昭牧師は「説教」(牧師による教会での宗教的説話)の大家でした。説教塾というものを主催して、牧師の後輩たちと「説教の研究」をしているようでした。彼もまた「論破」型の説教者でした。説教を細かく分析して、「突っ込みどころ」をなくすのです。(説教に点数をつけるらしい。「宗教的説話に点数をつける」ということのナンセンスさは置いておきましょう。それなら本当は「数学に点数をつける」のも同じくらいナンセンスなのですが。)そして、突っ込みどころをどんどん削って、ついにどこにも突っ込みどころのない「完璧な」説教ができるのですって。彼はそれを信じていました。でもそれは三浦綾子の本と同じで、限界ある人間が「説教」の突っ込みどころをなくすと言ってもそれは限界があるのです。
このように、私のことを「きみの言うことは突っ込みどころが満載だ」という人と、冒頭のフォロワーさんのように「完璧に説明していて反論できる人はいないレベルです」というかたもいらっしゃいます。どちらが本当かを言ってもしようがないものがあると思います。なぜなら人間の論理には限界があるからです。
アティヤという有名な数学者がいて、以下のようなことを言っていました。「厳密さは時代の関数である」。(これ、専門的すぎてネットで確認もできません。アティヤの言葉だというのが記憶違いでしたらすみません。)つまり、数学的な厳密さにおいても、それは時代によるということです。ある時代に「これは厳密だ」と言われたものが、別の時代には「それは厳密とは言えない」ということが起きるのです。微分積分も、ニュートンの時代とコーシーの時代で厳密さは違います。数学の世界のなかでもそういうことが起きるのです。まして、そこらで出回っている「一見、論理的に見える話」という水準の話が「どの程度、厳密か」というのはとても客観的に測れる程度のものではありません。それは私がそれこそ数学を専門としてきたからこそ思えることかもしれません。「人間の論理には限界がある。極めて人間的な営みである『数学』においてそれは顕著に表れる」ということだろうと思います。
私は、この「論破」の対極にあるものが「なさけ」だと思います。ひたすら論破しか頭にない人は、相手の「論理的破綻」を見つけるとそこを集中攻撃してきます。というべきか、それしか能はありません。そこに「なさけ」はありません。私の両親は典型的な「論破教信者」で、「なさけ」というものがありません。私の実家は、ひたすら「論破したほうの勝ち」というルールで日常がまわっており、そこに「親のなさけ」はないのでした。いまだにそうです。私が生まれてから46年、彼らはなにひとつ変わっていません。私はようやくその洗脳から脱しつつあります。今年8月に、ある町の教会のシェルターに滞在させてもらい、「損得勘定でない、善意でまわっている世界」に腰をおろした瞬間に母からの「100%金勘定」のメールが届き、そのあまりの落差に愕然としたものです。その教会のシェルターは「なさけ」の世界でした。「論破」の世界に生きる私の両親、そしてそのもとで何十年も洗脳されていた私とは別世界でした。
だれでも突っ込みどころはあるのです。だれでも揚げ足は取れるのです。私のことを「突っ込みどころ満載」と言ったその友人(友人と言えるのか?)も、もちろん論理的に完璧なはずはなく、彼もまた「突っ込みどころ満載」です。「人を裁くな」(新約聖書ルカによる福音書6章37節)とイエスは言いましたが、これは、「論破」ではなく「なさけ」で生きることへの招きだと思います。だれでも突っ込みどころはあります。揚げ足を取ったら(取られたら)キリがないです。それよりは、お互いの過ちに目をつぶりつつ、ゆるしゆるされて生きるほうがよいことを言っているのだと思います。それを「なさけ」というのだと思います。お好きな歌を思い浮かべていただきたいと思います。ほとんどの歌は、「論理」ではなく「なさけ」を歌っているだろうと思います。人は論理では生きられません。人はなさけによって生きているのです。これが「論理の極致である」数学を修めてきた私の現在の着地点です。