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神への不平不満

 6年前のことになります。子どもは幼稚園の年長で、どうやらそのころ幼稚園児向けの聖書絵本みたいなのを読み、聖書の大まかなストーリーを知ったらしい。そして私に質問してきました。だいたい以下のような趣旨です。なぜイエスは十字架にかかったのか。悪いことをしていないのに。バラバではなくて?という問いです。(※バラバとは、イエスの代わりに釈放された強盗です。)子どもはそのころ、もうすぐ小学校へ上がるころです。子どもは小学校をおそれていました。幼稚園とは違って、学校というところはとても厳しいところではないのか。イエスのように、悪いことをしていないのに罰せられるようなところではないのか。そういう気持ちだっただろうと想像できます。

 そのとき子どもにどう答えたかは覚えていません。しかし、その問いにたいする私のホンネは以下でした。

 すなわち、悪いことをしていないのになぜか罰せられる人は世の中にたくさんいます。そういう人類の代表としてイエスは十字架にかかったのだ、と。

 栗田隆子(くりた・りゅうこ)さんという文筆家がおいでになります。ある短いYouTubeの動画で話しておられたことがあります。(リンクをはってもいいのですが、それだと「見なきゃいけない」という感じになることを恐れてリンクをはりませんが、興味のあるかたは「カトリック正義と平和 栗田隆子」で検索なさってみてくださいね。12分半の動画です。)栗田さんは、少なくとも当時、生活保護と障害年金で生計を立てる文筆家だと自己紹介なさっています。(余談です。話を聞いていると栗田さんはおそらく「障害厚生年金」。私がもらえても「障害基礎年金」になるのにたいし、それよりはるかに大きい額をもらっておいでになる。ひがみみたいな余談終わり。)その栗田さんのお話は抜群におもしろいです。栗田さんは、聖書では、「エレミヤ書」や「詩編」がお好きだそうです。なぜなら、「神様に文句が多いから」。

 旧約聖書のエレミヤ書を通読なさったかたはおいでになりますか?「聖書通読17回」の記録を持つ私のエレミヤ書の感想は、ともかく「支離滅裂」「意味不明」「ちんぷんかんぷん」です。エレミヤって現代だったら、なにかの診断名がつきそうです。あえて「エレミヤ書」をひとことで表すなら、栗田隆子さんの言う通り「神様への文句たらたら」です。「詩編」も「神様への文句たらたら」はけっこう多いです。

 イエスに戻りますが、その十字架にかかったイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(新約聖書マルコ15章34節、新共同訳)と言って死にました。「なんでこうなるの!?」と言いながら十字架上で死んだのです。神への文句です。しかし、やはり全人類の代表として十字架にかかる人の言うことは違いますね。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というのは、ほぼ人類みんなの言いたいことじゃないですか。多かれ少なかれ、みんな神様に文句は言いたいです。イエスは最期に、全人類代表で神にそれを言って亡くなったのです。だから彼は最期まで「救い主」だったと言える。

 その十字架上の言葉も、詩編22編の冒頭の引用です。栗田さんもご指摘の通り、詩編も「神への不平不満」が多いですが、これもまさにそのひとつ。土居健郎(どい・たけお)に言わせると、こういうのを「神への甘え」と言うのですよ。「不平不満を言う」のって、「甘え」の一種でしょ?こういうのを「お祈り」と言うのです!だから絶えず神様に甘えましょう!

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