「しんどい」と言って嫌がられる話
バリバラの玉木幸則さんが「しんどいときは『しんどい』って言っていいのだ」と言っていました。牧師の奥田知志さんは「困ったときは『助けて』って言いましょう!」と言っています。おっしゃる通りだと思いますが、以下のようなことがあります。
半年くらい前、リアルの教会の仲間に久しぶりに会いました。私が彼に「最近どうですか」と聞くと彼は「たいへんですね」と言いました。まことに勝手ながら私は腹が立ちました。「何が『たいへんですね』だ!オレのほうがあんたより一億倍たいへんだわ!!」と思いました。玉木さんによれば、しんどいときは「しんどい」と言ってよいのですが、実際に言うとこのように嫌がられる場合があります。というか、皆さんそれがわかっているから「しんどい」ってなかなか言わないんでしょ?
比較的最近、障害者手帳を取得しました。私の部屋はゴミ屋敷のようですが、障害者手帳を持っていると無料でヘルパーさんに入っていただけると聞き、本日、ある障害者福祉に電話しました。その障害者福祉の人は「受給者証ってあるでしょ?あの紫色のやつ」とおっしゃいました。私は色弱という、先天性の色覚障害でもあります。「すみません、紫というのがわかりません」と言えました。しかし、これは相手が障害者福祉の人だから言えたようなものです。こういうシチュエーションでの通常の私の対応は、必死で空気を読みつつ「おそらくこれが紫だよな」と思いながらやり過ごすというものであるわけです。いちいち「私は先天性の色覚障害で、紫がわからないのです」とはどうしても言いづらいです。
そのあと、区役所の障害福祉課に行きました。一通りの説明を受け、手続きをしたのち、次に行くべきところがクリニックであったため、その障害者福祉の人に、最寄り駅までの道をたずねました。その人はていねいに地図をコピーしてくださり、最寄り駅をピンクのマーカーで示してくれました。私は「ピンクはわかりません」とは言えませんでしたね。相手は障害者福祉の人であったにもかかわらず…。
「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた…(後略)」(新約聖書マルコによる福音書10章13節以下)。聖書のこういう物語に接するほとんどの人は、イエスに触れてもらうために子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちを「けしからん!」と思ってお読みになるのでしょう。しかし、自分もその場にいたら、弟子たちといっしょになって、その人たちを叱っていた可能性も高いだろうと思っています。私も含めてね。「イエスさまに子どもを触れてもらおうだなんて、なんというあつかましさ!」と言って。
だから、しんどいときに「しんどい」と言うことには勇気がいるのです。私だって今日「白黒の地図のコピーに、ピンクのマーカーでは、極めて見づらいです」とは言えなかったように。一方で冒頭の彼のように、「たいへんですね」と思わず言ってしまう面も人間にはあります。イエスさまのところに子どもを連れて来た人たちもそうですけど、あつかましくする人って自分のあつかましさに無自覚だったりしますからね。これらは観察すればするほど不思議な人間の性質です!