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発達障害と宗教

6年前、40歳のときに発達障害の診断を受けて以来、私は自分の障害特性を言語化する努力を積み重ねて来ました。苦手なことも、得意なことも、理由を根拠づける努力をして参りました。このうち、「得意なこと」のほとんどは発達障害に由来することが言えます。「数学(勉強と言われるもの全般)」、「プログラミング」「校正」「採譜」「ライティング(宗教ライター)」。これらを回していまどうにか食おうとしていますが、だいたい以下のように自分を分析しています。

「採譜」とは、音楽を耳で聴いて楽譜に起こすことです。「耳コピ」などとも言います。長いこと、この能力の由来を自分で説明することはできませんでしたが、『ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい』という本で、物理学の極端な才能のある少年が、耳で聴いた音楽をすぐにピアノで再現できるシーンがあり、自閉症とまったく無関係の才能ではないだろうと思っていました。相互フォロワーの、自らも障害者で、障害研究者の奈良里紗さんから、「サヴァン症候群」という言葉を教わって、図書館で調べて分かりました。これはサヴァン症候群に特徴的な「症状」です。(ちなみに、サヴァン症候群という言葉は現在、急速に意味が軽くなって来ており、おそらくあと半年後くらいには、世の中は「自称サヴァン」であふれている気がします。10年前くらいの「アスペルガー」と同様の運命をたどる言葉のような気もします。「天才」という意味で使われているのです。)

それから、「数学(勉強)」の能力も、「空気が読めない(論理で理解する)」というところから来ますし、校正の能力も、空気が読めないので人が気づかない間違いに敏感に気づく、というふうに説明できます。プログラミングも同様です。プログラミングの本質は、機械という空気の読めないものに、論理で教えてやることだからです。唯一、説明できなかったのが「宗教のセンス」でした。これは発達障害から説明しがたい。しかし、最近、以下のように説明できると思うようになりました。

私の好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」(新約聖書ヨハネによる福音書20章29節)です。「好きな聖書の言葉」ではなく「好きな言葉」です。つまり、世の中のあらゆる言葉のなかで最も好きな言葉なのです。ここで「貧しい者は幸いである」という聖書の言葉を成立させているものは「貧しいことが幸いであるわけはない」という現実であることを考えますと、「見ないで信じる者は幸いである」という言葉を成立させているものは「見ないと信じない」という現実だと考えられます。

私は、小さいころから1度もサンタクロースを信じたことがありません。小学2年くらいのときに、下校時に紙芝居のお姉さんが、イエス・キリストが十字架にかかっている紙芝居を見せて「ひどいでしょう」と言ったのが、イエス・キリストとの「出会い」でしたが、「世の中にもっとひどい目にあっている人はいる」と思って見ていました。世のアナウンサーの声がすべて一律に聞こえるので、あれらは(いまで言う)「打ち込み」だと思っていました。そういう子どもでした。徹底的に見ないと信じない子どもだったのです。

数学という学問は、徹底的に見ないと信じない学問です。「定理」には必ず「証明」があります。主張には必ず根拠があるのです。私が算数や数学を誰かに指導していて最も言っていることは「見ないで信じるな」だと思います。勉強ができるようになる秘訣は「空気を読まない」ことだと思っています。(脱線。勉強ができるようになりたい皆さんは、どうぞ授業中に空気を読まないでください。それだけで余裕で東大くらいは受かると思います。)つまり「見ないで信じる」という宗教の根本は、その点に立脚しているのです。私は人一倍「信じる」ということの尊さを深くかみしめている人間だと思われるのです。

これで、私の特技がすべて発達障害の観点から説明できました!私に宗教のセンスがあるのも発達障害に由来する!

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