不完全性定理
(これはまた、6年前(2015年)の、中学生に向けてのメッセージとして書いた文章です。当時は自分が発達障害だと気づいていませんでしたし、いまなら違う言いかたをすると思いますが、これはこれで大切にしたい原稿です。)
私が行っているクラスのみなさんはご存知のとおり、私腹ぺこは、かなり、不完全な人間です。たとえば、常にふらふら、うろうろしている。手をぶらぶらと動かしている。ズボンが常に下がっていて、メガネも曲がっており、体も曲がっている。教員であるのに、物事を人前でわかりやすく説明するのが極端にへた。うるさい生徒を黙らせるのもへた。などなど、挙げだすときりがないほど、私は、完全にはほど遠い、不完全な人間です。
いっぽうで、見れば見るほど、完全に近い、という人に出会う、ということも確かです。勉強ができる上にスポーツも万能である。そして歌もうまかったりする。性格も良い。さらにけっこうイケメンである、もしくはかわいい。といった、「この人は、完全ではないか」という人に、しばしば出会います。
しかしながら、実は、完全な人ほど、持っていないものがあります。なんだと思いますか?
完全な人が持っていないもの。それは、「不完全さ」です。完全な人は、不完全という要素を持っていないがゆえに、大幅に不完全なのです。
ゲーデルという人が20世紀前半に証明した「不完全性定理」という定理があります。この不完全性定理の主張するところを、大ざっぱに一言で述べますと、「人間には証明できないような真理がある」ということになります。そして、この定理の証明の大まかなアイデアは、先ほど私が述べた極論みたいな理屈なのです(不正確でごめんなさいね。基礎論のみなさま、すみません)。
さきほど読んでいただいた聖書の箇所で、「喜びなさい。完全なものになりなさい」という言葉がありますが、これは、人間が自分の力で完全なものになれるという意味ではありません。むしろ、つねに不完全でしかありえない私たち人類の上に、唯一、完全と言ってよい天にましますわれらの父が、完全なる神の恵みを注いでくださっている、ということを意味するのです。
私腹ぺこは、大なり小なり不完全な人間のなかでも、またかなり不完全なほうの人間ですが、そのようなわけで私は、唯一、完全な、天の父なる神様に信頼を置いて生きていきたいです。神様が私たちに生きることをゆるしてくださっているように、私たちもまた、互いにゆるしあって生きていきたいと切に願っています。テストでいい点の取れないあなた、自分は変な顔をしていると思っているあなた、自分の性格は曲がっていると思っているあなた、それほど自分は不完全なほうではないものの充足感のないあなた、人がゆるさなくても、すべて神様はゆるしてくださっています!