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もう少し素直に聖書を読もうよ

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という有名な言葉は、ものすごく反論の余地のあるなか、あえて断言している言葉です。それは、ついきのうも、痛感したところです。牧師でさえも、この言葉には、ひるんでいる。

 私の(がちがちな?)キリスト教の友人で、「求めても与えられません」というブログの記事を紹介してくれた仲間がいます。気持ちはわかりますよ。求めても与えられないことのほうがはるかに多いですから。あるいは、求めたものが与えられるとは言っていないとか、みなさんいろいろなふうに解釈しておられる。しかしですねえ、この言葉は、もっと素直に、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と、文字通りに読んでいいのではなかろうか。求めても与えられないことばかりなのはわかり切っています。そこをあえて「求めなさい。そうすれば与えられる」と言い切ったイエスは、何千年にひとりもいないほどの「名言」を言ったのです。これは反論の余地がいくらでもある言葉です。多くは求めても得られないから。しかし、そういうことにかかわらず、「助けて!」と叫んで、「甘えるな!」と叱られてもなお、「助けて!」と言い続ける。助けてもらえるまで、あつかましくSOSを出し続ける。あるいは、真夜中に友だちの家にパンを3個、貸してもらいに行く。それで、どれだけ面倒がられても、しつこく、貸してくれるまでねばり続ける。つまり、「開かれるまで門をたたき続ける。見つかるまで探し続ける。与えられるまで求め続ける」というあつかましさを言っている言葉である。それでも与えられないかもしれない。でも、私自身、「助けて!」と言って、助けてくれる人が現れる体験は、このところずっとしています。確かに、求めたら与えられるのを実感しています(と一言で言ったら語弊があるのはわかっていますよ。でもあえて言う)。確かに、数学の才能はもう戻って来ないのですが、それでも前を見て歩んでいかねばならないから。

 聖書に出てくる、奇跡的に病気や障害がいやされる話もそうです。こういう聖書に出てくる「奇跡物語」が好きな人に、以下のような人たちがいると聞いたことがある。(以下、おそらくかなりカリカチュアライズされているので、どこまで事実に近いのかは知りません。無責任に書く私をどうぞおゆるしください。)武道館だか東京ドームだかを貸し切りで行われるイベントだそうです。歩けない人が歩けるようになるところを見せるそうです。それでみんなで「奇跡だ!ハレルヤ!」と叫び、洗礼を受けるそうです。いや~、どこまでほんとうだかわからない話ですが、こういうことはまことしやかに語られており、私の通う教会(いわゆる「リベラル」)では、逆に「奇跡信仰」への拒絶反応みたいなのがある(すぐにその「武道館ライヴ」みたいなのを想像してしまうため)。私が、奇跡物語が大好き(盲人バルティマイがいやされる話とか大好きなのは、私の話を続けてお読みくださっているかたならご存じでしょう)なのを知って、私に「武道館ライヴ人間」のレッテルをはった伝道師さえいる。だから、もう少し素直に聖書を読みましょうよ。うまい例が思いつかないのですが、たとえば「つるが恩返しするわけないだろう」と言ったら、あの「つるの恩返し」という物語は、意味をなさなくなります。身もふたもない話になります。「桃から赤ん坊が生まれるか?」というのも同様。(「竹から赤ん坊が生まれるか?」というのはちょっと違う。あれは、よくできたSFみたいな作品で、ちゃんと、かぐや姫は月から来たのだということが最後で明らかになるから。)とにかく、つるが人間の姿になって恩返しをするはずがないだろう、と言えば身もふたもない。あの物語の言いたいことは「見てはいけないと言われたものを、見てはいけません」という意味か?そうではないでしょう。ではなんだと言われるとうまく説明できませんが、聖書に出てくる「奇跡の物語」も、そういうものではないでしょうか。無理して武道館で、車いすの人が歩けるようになるのを実演するようなものではないし、かといって、それを信じる人を忌み嫌うべきものでもない。もう少し素直に聖書を読みましょうよ。(ノンクリスチャンの聖書の読み方が気持ちいいのは、その「素直さ」ですね。)

 聖書って、それで言ったら、冒頭からもう突っ込みどころに満ちており、神が「光あれ」と言ったら光があったなんて、物理法則を完全に無視していて、べらぼうな話ですが、まあ神様は全知全能だからなんでもできるとして、では神が「光あれ」と言って光があった場面は、誰が見ていたの?そのころ、人類はまだ作られていませんでしたけど?とか、神は「光あれ」「闇あれ」とは言わなかったんだね、「闇が深淵の面にあり」と書いてあるとおり、神が造る前から闇はあった。天地万物を神が造ったと言っているけど、「闇」は神が造る前からあったじゃん!とか、聖書の冒頭3節くらいで、突っ込みどころだらけであります(ただ、聖書の読み方としては極めてセンスがない読み方とも言えます)。しかし、ある女性の牧師さんのパートナーのかた(いわゆる「初代のクリスチャン」)は、この創世記の冒頭をはじめて読んだとき、感激して、思わず外へ出て「そうか!この世界はすべて、神様がお造りになったのだ!」と叫んだと言います。私にそこまでのピュアさはありませんでしたが、さっきの(センスのない)聖書の読み方に比べると、はるかに素直に聖書を読んでいる。もっとも、なにをもって「センスがある読み方だ」と言うかにもよりますけどね。さっきの「『光あれ』と言ったら光があった話は、だれが見ていたのだ?」という読み方のほうが、素直なのかもしれない。このへんが信仰というものの難しさで、「スサノオノミコトは実在しなかった」と言えば拒否反応を示すかたはおいでになり、「文献学的・考古学的に、モーセがいたことは証明されない」とか、「処女は普通、出産しない」とか、「目の見えない人が見えるようになるわけがない」とか、言い出せばキリがありません。でも、どうもうまく言えませんが、それだと「つるが恩返しをするわけがない」と言っているくらいのナンセンスさを感じてしまうのです、少なくとも私は。

 ですから、もう少し素直に聖書を読みましょうよ。「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉も、小難しく考えるのは(それはそれで意味のあることだと認めますが)置いておいて、素直に受け取ったらいいと思います。聖書は極論に満ちているのです。正論ではない。いくらでも揚げ足のとれる「極論」に満ちているのです。それを「正論」にするために、多くの人が、後付けの理由を考え出しているのです。それは根本的に無理がある。(「貧しい人が幸いなわけないじゃん。」)聖書とは極論の書(いくらでも揚げ足のとれる書)としてとらえられるべきものです。われわれは聖書を深読みしすぎなのだ。もう一度、言いますけど、「求めなさい。そうすれば、与えられる」は、もっと素直に受け取っていい言葉だと思いますよ。

 以上です!

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