乗り越えられない試練
(以下で最初に出すマンガは、私はほとんど知りません。あるとき、ある教会での説教で知った話です。最初にお断りしました。)
マンガ『釣りバカ日誌』で、主人公のハマちゃんの「名言」と言われるものがあります。みち子さんへのプロポーズの言葉です。「僕はあなたを幸せにする自信はありません。でも、僕が幸せになる自信はあります」。これはかなり「むしのいい」言葉であると言わねばなりません。しかし、宗教の本質は「むしのよさ」ではないかと私には思えています。キリスト教に限りません。「なんまんだぶと唱えるだけで、極楽浄土に行ける」という教えも、このハマちゃんに匹敵するくらいむしがよいと言えるでしょう。あまりにむしがよくて、理論武装が大変なのですが、言わんとすることはかなりシンプルです。
「神は乗り越えられない試練を与えない」という言葉が人を苦しめるというニュースを読んだことがあります。これは出典が聖書であり、テレビドラマで使われて有名になった言葉のようです。私もだいぶ前、成人の日のニュースで、この言葉を引用する新成人を見たことがあります(ニュース番組の制作者はそれが聖書の言葉だとは気づいていなかったように見えました)。この言葉で苦しむ人が出るのは、試練を乗り越えらないのは自分のせいだと思ってしまうからのようです。
しかし、この言葉よりももっと「むしのよい」言葉が、同じ聖書の中にあります。先ほどのは「コリントの信徒への手紙一」の10章13節です。使徒パウロの言葉です。つぎに紹介するのは、「マタイによる福音書」6章13節です。イエスが「こう祈れ」と言って教えたところで、よく「主の祈り」と言われて、教会の礼拝などでもひんぱんに唱えられています。「私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」。「試み」とは「試練」のことです。これをどうしてむしがよいと言うかと言いますと、「試練にあわせるな」と祈っているからです。パウロとイエス、どちらがハマちゃんに近いかと言いますと、イエスです。試練を乗り越えようとしていない。そもそも試練にあわないようにと祈っているからです。
私もいつのまにか教会に通って二十年以上がたち、主の祈りなど暗唱して惰性で祈ることなど当たり前になっています。でも、主の祈りの意味を考えると、「今日の食べ物をください」「われらの罪をゆるしてください」と、むしのいいことが並んでいます。そもそもお祈りとはむしのいいものです。でも神様は天の父だから、われわれ子どもにはよいものをくれるはずなのだ!そう信じて祈るわけです。かつて日銀総裁だった故・速水優氏は、マスコミから「結局は神頼みか」とバカにされていましたが、確かに「神頼み」だとむしがよいように感じられ、「神により頼む」というとかしこまって感じられます。ものは言いようです。
「重荷すべて 主が代わって 負ってくださる うれしさ」(『讃美歌21』17番)。ずいぶんむしがいいな。半分くらい負えよ!と思ってしまいますが、思わずこんな賛美歌を作ってしまった人はある意味で宗教の本質を突いています。自分に甘く!ダブルスタンダードで行きましょう!