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あつかましい人、バルティマイ

 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコ10:46-52)


 このnoteでも、このバルティマイの話だけで、もう何回も取り上げています。しつこいと思われるでしょうが、正直に申し上げます。私は、学生時代、はじめて聖書を読んだときから、この手のお話、すなわち、目が見えない人が見えるようになった、片手のなえた人が治った、足の不自由な人が歩けるようになった、重い皮膚病の人が癒やされた、という話に、ずっと、感動し続けてきたのです。ことに、このバルティマイが見えるようになる話は格別で、この話を読むと、はじめて読んだときから二十年以上たった今でも、感動のあまり、涙してしまうことがしばしばです。しかし、最近になって、なぜ、私が、こういう場面で感動してしまうのか、わかりました。
 私は、いつの間にか、バルティマイに、感情移入しているのです。


 この話を読むとき、私は、すっかり、盲人の物乞いになった気持ちです。そこへ、イエスの一行が通りがかります。ものすごく勇気のいることですが、私は(バルティマイは)、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」と叫びます。しかし、聖書には、そのつぎに、「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」と書いてあります。多くの人に叱られて、黙らさせようとされたら、私だったら、もう、なにも言えないかもしれません。でも、バルティマイは、なんと、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」と叫び続けたのです。なんというあつかましい人でしょう!しかも、バルティマイは、イエスに、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。もう、むちゃくちゃにあつかましい人です。しかし、これくらいあつかましい人こそが、イエスによって、ほんとうに目が見えるようにしてもらえるという、そういう話だと、私には読めるのです。だから、感動して、涙が出るのです。


 何度も書いていますが、土居健郎の『「甘え」の構造』(1971)の刊行から半世紀、日本は、どんどん、甘えをゆるさない社会になっていきました。みんな「助けてください!」って言えないのです。それを言うのは、みっともないと思っているからなのか、それとも、「甘えるな!」って、怒られるからなのか。いまでは、総理大臣まで、「まず自助」って言っています。自分のことは自分でしろって。ひとに迷惑をかけるなって。甘えるな!って。


 
 バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」と叫びました。しかし、多くの人が叱りつけて黙らせようとしました。やっぱり、「助けてください!」って言うと、「甘えるな!」って叱られてしまうのです。でも、イエスさまは、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。これは、どれだけ叱られても、あつかましく、あつかましく、イエスさまに願い続けた人が、「あなたの信仰があなたを救った」と言われて、癒やされる話なのです。


 
 聖書には、バルティマイ並みにあつかましい人がたくさん出てきます。マルコ2:1以下には、中風(身体麻痺)の人の、4人のお友達が、なんとかイエスさまにこの人を癒やしてほしいと思って、でもイエスの周りには人がたくさんいたので、ついに、イエスのいる上の屋根をはがして、病人を床ごとつり降ろす、ということをします。もう、むちゃくちゃにあつかましい人たちです(中風の人が、というより、その4人が)。でも、イエスさまは、その人たち(4人)の「信仰」を見て、その中風の人を癒やしてくださいます。彼は、起き上がって床を担いで帰りました。あるいは、マタイ15:21以下で、カナンの女が、娘から悪霊を追い出してもらいたいと思って、イエスに頼みますが、何回、無視されても、迷惑がられても、断られても、食い下がって、食い下がって、あつかましく、あつかましく、イエスに頼みます。そして、イエスに「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われ、彼女の娘は、癒やしてもらえるのです。


 「求めなさい。そうすれば与えられる」という有名な言葉の前の部分を、ルカで読んでみますと、ルカ11:5以下ですが、深夜に友人宅へ行き、「パンを三つ貸してください」とたずねてくるあつかましい人の話が出てきます。その友人は、面倒をかけるな、もう戸はしめたし、子どもも寝たし、と言って断るのですが、それでも彼があつかましく「パンを貸してください」と言い続けるならば、友人だからっていうわけではなく、あまりにあつかましいから、その友人は、ついに起きてきてなんでも出してくれるだろうと言うのです。イエスは続けて言います。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。
 もう、めちゃくちゃにあつかましい人のたとえではないですか。
 イエスにとって、「信仰」というというのは、あつかましく頼んでくる人のことではないかとすら、思えてきます。


 みなさん、イエスさまに甘えましょう。あつかましく、あつかましく、お願いしましょう。イエスさまは言ってくださいます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

 

 本日は、長かったですね。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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