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真夜中に友だちの家にパンを貸してもらいに行く話

 また、(イエスは)弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(新約聖書ルカによる福音書11章5-10節)

 上の聖書の箇所は、途中から有名な言葉が出て来ます。「求めよ、さらば与えられん」。しかし、その言葉が出る前に、上のようなイエスのたとえ話があったことについては、一般にはあまり知られていない気がします。(※この「求めよ、さらば与えられん」は、上記のルカ福音書だけでなく、マタイ福音書にも出て来まして、そちらには上のようなたとえ話は出て来ませんが、あまり細かいことは言わずに話を進めたいと思います。)

 しかし、このイエスのたとえ話に出てくる人の、なんと、あつかましいことでしょう!真夜中に、友だちの家に行って、「パンを3つ貸してください」と言う!…これ、できるでしょうか。たとえば私は、マンションに住んでいますが、同じマンションに、子どもつながりの「友だち」がいます。その家に、(「真夜中」と言いますから深夜ですね、)深夜1時くらいに行って、「ピンポ~ン」と押して、「パンを3つ貸してください」と言う。…。言えないでしょうね。これは、あまりにもあつかましい人のたとえです。しかし、イエスは、このたとえ話(しかもたとえ話は、「面倒をかけないでくれ」と断られたのに、なおもしつこくして貸してもらう話になっている!)の流れで「求めよ、さらば与えられん」と言っているのです。

 長いこと、この話は、私のなかで、「なぞ」となっていました。私は「聖書通読マニア」で、聖書を、いままでに17回も通読(最初から最後まで読むこと)しています。すると聖書には、数限りない「なぞの話」「意味不明の話」が出てくるのです。そんな話のうちのひとつだと思っていました。しかし、この1年くらいで、私の、この聖書の箇所の読み方は変わりました。イエスは「これくらいのあつかましさで行け!」と言っているのです!「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」とイエスは命令形で言っています。これはイエスの「命令」なのです!

 ご近所づきあいが、希薄になってきている気がします。この聖書の話は二千年前のパレスチナの話ですから、ひとくくりには語れませんけれども、私の少し上の世代のかたは、ご近所に、おしょうゆを借りに行くことなどはよくあったようです。つい最近、ご近所づきあいが希薄になっているということを感じる出来事がありました。マンションの管理組合から、あるアンケートが来たのです。どういうアンケートかと言いますと、「楽器の演奏時間について、マンションの使用細則に追加するかどうか、するとしたら、何時から何時まで禁止で、一日何時間までがよいか。あるいは使用細則に追加しないか」というものでした。たしかに、私の部屋からでも、どこからともなく、ピアノを練習する音が聞こえます。曲名までわかるほど、はっきり聞こえることもあります。ブルグミュラーの練習曲(本格的なクラシック音楽の名曲というよりは、ピアノ学習者が練習するような子どもむけの曲)だったりするので、CDではなく練習でしょう。何回も繰り返しているし。でもですね、それはマンションの使用細則に載せることでしょうか。これは、ルールではなく、マナーの問題ではないでしょうか。

 ご近所づきあいが希薄になってきているのです。もし、上の階のピアノがうるさいのであれば、実際にその家に行き、「ちょっと音が大きいのですけれども…」と言う(勇気のいることですけれども)。言われた方は、傷つくか、あるいは、逆ギレしてくるか。この、逆ギレされたら怖いと思うから、なかなか言いに行けないのでしょうね。でも、「一緒に住む」(同じマンションに住む)って、そういうことではないですか。ぜったいにだれかに迷惑をかけているし、かけられているし。そういう、「ピアノの音がうるさい」ということにしても、もう少しご近所づきあいがあるなら、話し合いで解決できるかもしれないのに(ケンカになるかもしれないけど)、そんな、「マンションの使用細則に載せる(ルール化する)」なんて、ご近所づきあいが希薄すぎるからではないか?と思ってしまうんですけど。

 (「お前、発達障害で空気が読めないくせに、よくそういう発想をするな」と思われたかたへ。違うんですよ、これは私が、空気が読めない人間だから、余計、上のように発想するのですよ。上の発想(ルール化しない)のほうが、なんというか「包括的」でしょ?世の中にはいろいろな人がいる、自分とは違う価値観の人、自分とは常識の違う人、自分とは読んでいる空気の違う人…。そういう人も排除されない世界を考えると、上のような発想になるのです。空気を読んだら(空気が読めたら)、たしかにピアノがうるさくても、その家をたずねていけないでしょうよ。「ルール化」に向かうでしょうよ。)

 というわけで、きょうの冒頭の聖書の話に戻ります。真夜中に友だちの家にパンを3つ貸してくださいと言いに行く人くらいのあつかましさで「求めなさい。そうすれば与えられる!」と言っているのが、イエスの言葉です。「求めよ、さらば与えられん」って、こういう意味なのです。これに限らず、聖書には、あつかましい人がたくさん出て来ます。リンクがはれなくて申し訳ございませんが、私の過去の記事「あつかましい人、バルティマイ」もしくは「ショートメッセージ:バルティマイのように」をご覧ください。かんたんに概要を書きますと、バルティマイというのは、盲人の物乞いなのですね。イエス一行が通りかかると、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」と叫びます。多くの人が叱りつけて黙らせようとします。私だったら、もう二度と口がきけないかもしれませんが、なんとバルティマイは、ますます声を張り上げて「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」と叫び続けます。なんというあつかましさでしょう。そしてついにイエスに呼んでもらえたバルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と言います。もうめちゃくちゃにあつかましい人ではないですか。しかし、彼は、そのあつかましさゆえに、イエスに「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、目が見えるようにしてもらえます。まさにバルティマイは「求めたら、与えられた」人なのです。

 みなさん、もっと、あつかましく生きましょう。この、孤立化、無縁化の現代社会において、上のイエスの言葉は、ますます輝いています。困っているときは助けてもらったらよいのです。そして、ときどき自分が助ける側になることもあります。助けて、助けられて、人は生きていきます。繰り返しになりますが、もっと、あつかましく生きていきましょう。真夜中に友だちの家にパンを3つ貸してくださいと言う人のように!

 以上です。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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