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ほめられるということ

ある教会にA牧師とB牧師という2人の牧師がいました。A牧師はコンスタントに「いいお話」をします。B牧師は新米で、あまりいいお話が出ません。たまにB牧師の「いいお話」が出ると教会に来ている人はこぞって「B先生!今日のお話はよかったです!」とB牧師をほめるのでした。このように人は「よくないほうをほめる」傾向にあります。そのうちB牧師が熟達してきて、いいお話を連発するようになるころにはB牧師もほめられなくなっていきました。

別の町の教会のC牧師と飲んだときのことです。C牧師はしきりに「自分がした『いいお話』の話」をしていました。C牧師は極めて高く評価されている人です。私が滞在した間でさえ、何かのオンライン授賞式に臨んでおられたものです。C牧師は「高く評価される」ことはあっても「単純素朴に『すごいね!』とほめてもらえる」ことがあまりないのだな、とわかりました。(だからと言って私がC牧師を「ほめてあげる」ことはできなかったのですが。)

ある小学生が、家庭科の調理実習で習ったチャーハンと味噌汁を振る舞ってくれたことがあります。その場にいた大人たちはこぞって絶賛で、みなさん「100点!」とか言っていました。私も流れで「100点」と言わざるを得なかったですが、すぐにその子の耳元に行って「味噌汁は100点だけどチャーハンは90点」と言い直しました。そのチャーハンは確かにおいしかったですけど、「一味足りない」のは明らかだったからです。それは本人も思っていたでしょう。自分でもちょっと不出来だと思っているものをほめられてもうれしくはないのだ。かように「ほめる」ことは難しいです。

中学1年生はそろそろ生まれて初めての「中間テスト」でしょう。かつて私は中高の教員でした。配布プリントには、100点を取った生徒がそれをみんなに見せているイラストなどを載せたりします。こういうフリー素材のイラストでも「100点そのもの」というイラストはあまりないものです。つまりこれは「100点そのもの」がうれしいのではなく「100点をとってそれをうちの人に見てもらってほめてもらえる」ことがうれしいのだ、ということを示していると思います。

マラソンの有森裕子さんが「自分で自分をほめたい」と言ったことが話題となったことがありました。しかし実際には自分で自分をほめることには限界があります。誰かひとからほめられたときに「ヨッシャー!」という気持ちになるのです。

私は最近、あまりほめられなくなってきました。でもそれは最初のA牧師と同じで「腹ぺこさんは賢いのでしょう。賢い人が賢いことを言うのは当たり前でしょう」と思われているかららしいことがだんだんわかってきました。だいじょうぶ、私は高く評価されているぞ。しかし、願わくは私をもっと「ほめて」ほしい!

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