とんちんかんなことを言っていい
人にあつかましくするのには限界があります。神様にはいくらでもあつかましくできますけど、ただし神様は見えません。そこで、人にもあつかましくするのです。たとえ限界があっても、人にもあつかましくせずにはわれわれは生きていけません。
人にぐちを言うのにも限界があります。あまり人にぐちを言っていたら嫌われますからね。神様にはいくらでもぐちが言えます。しかし神様は見えません。そもそも神様なんているのかどうかもわからないです。そこで、やっぱり人にぐちを言わずにはいられないのです。ときに人のぐちも聞いて、自分もぐちを聞いてもらって、助け合いの精神で生きて行くしかないです。
それと同じように、人に自分のことをわかってもらうのにも限界があります。神様はどれだけ複雑な事情でもわかってくれますけどね。でも、神様は見えませんから、やはり人にわかってもらえなかったらつらいです。しかし、人は有限な存在ですから、人が人をわかるのには限界があるわけです。
私にも理解者がたくさんいます。皆さん、私のことをわかってくださって、ありがたいです。世の中は敵ばかりではありません。どこにでも意地悪な人はいますが、どこにでも親切な人はいるのです。私のことをわかってくださるありがたいかたはいます。しかし、皆さんいずれもどこか、とんちんかんです。神様と違って完全に理解できる人はいないため、必ず皆さんどこかとんちんかんなのです。
それでいいのです。私もとんちんかんだし。不完全な人間どうしが、ときどきとんちんかんながらわかりあっていく。それが人間関係だろうと思います。
いまどきの小学校の教科書には、いろいろな「キャラクター」が登場します。彼らは決してとんちんかんなことを言いません。「教科書的な」という言葉がありますが、まさにそれは「教科書」なので、彼らは模範解答的なことしか言わないのです。これは極めて不自然なことで、実際の小学生に質問したら、驚くほどとんちんかんな答えが返ってくるでしょう。皆さんが小学生だとしましょう。必ずクラスメイトにとんちんかんなことを言うやつはいませんでしたでしょうか。逆に、皆さんが先生に当てられた生徒だとしましょう。必死で自分がとんちんかんなことを言わないように気をつけてしまうのではないでしょうか。でも、人間にはとんちんかんなことを言う権利があります。人からとんちんかんなことを言う権利を奪ってはいけません。私からとんちんかんなことを言う権利を奪ってもいけません。私はこうしてnoteでもときどきとんちんかんなことを言っていますが、それをさまたげることは誰にもできません。
というわけで、とんちんかんなことは言っていいです。みんなとんちんかんですから。そして、必ず自分のことをわかってくれる人はいるので、多少のとんちんかんは気にしないことにしましょう。(そして、すべてをわかってくれる人がひとりだけいて、それが天の父なる神様ね。)