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とんちんかんな感想
小さいころ、「次の本のなかから好きな本を買ってよい」と言われ、私はよりによって『読書感想文のじょうずな書き方』という本を選びました。これはいまでも言い表しにくい感情なのですが、毎日の、両親や教師からの叱責、級友からの嘲笑によって、すっかり心がねじけており、およそ作文などの苦手だった私は「お前なんかには、こんな本がお似合いだ!」と嘲笑されるのを見こして、自分でこういう本を選んだのでした。こういう感情、なんていうのでしょうねえ。それから40年近くがたつ今でも、こういう当時のねじけた思いは言葉にできません。
さて、その本は、思ったよりずっとおもしろい本で、何度も読みました。しかし、その本の著者が強調していたのは「読書感想文というものは、なにを書いてもいいのです」ということで、そのわりには、とてもよく書けている(全国読書感想文コンクール入賞作品とか必ず書いてある)「優秀な」読書感想文ばかりが例として載っている本でした。いまにして思うと、「感想文」って、その本の著者のおっしゃる通り、なにを書いてもいいわけですが、それにしてはその本の名前は「読書感想文の『じょうずな』書き方」だったわけです。なにを書くにしても、じょうず・へたはあるということですね。難しいですね。
最近、私の教会での友人が、ある教会の礼拝に行ったときのことを話してくれました。その教会では、礼拝のあと、分かち合いの時間があったそうです。つまり、礼拝の感想などを自由に言い合う時間があったということですが、その友人は、なにか気の効いたことを言わなければならないようなプレッシャーがあったということを笑いながら話してくれました。(そして、おそらくそのプレッシャーは、その教会が発しているものではなく、その友人が「勝手に」感じていたプレッシャーだろうということもわかりました。)
またある人は、小さいころ、「聞いたあとに感想を求められる話」で、自分の感想が、ひとと違っていやしないかというのが、すごく気になったという話をしてくれました。大人になった今は、そうは思わないそうですけど。
私は、昔も今も、「ひとと感想が違う」のはあまり気になりませんが、「感想を求められて、的外れなことを言ってはならない」とかいうようなプレッシャーを感じることはありますね。たとえば、この記事も、私の「世間感想文」みたいな面がありますので、的外れなことを言いはしないかというなぞのプレッシャーみたいなものがあります。そんなものは感じなくていいということは百も承知なのですよ。でも、そういうプレッシャーは感じますね。
小学校の教科書を見ているとすぐに気が付くことですが、算数に限らず、理科でも国語でも社会でも、お友だちみたいなキャラクターが出て来て、漫画のようにしゃべりながら教科書を進行させています。その「お友だち」の言うことが、いちいち、ものすごく的を射ているのです。疑問の呈しかたも的を射ているし、発想のしかたも的を射ている。もちろん模範解答を言う。(もっとも最後に解答を言うのはおもにキャラクターの役割ではなく、教科書そのものの地の文であることのほうが多いですが。)現実にはあり得ないことです。実際には、もっととんちんかんなことを言うやつはいるはずですし、的を外した意見もたくさん出るはずです。「間違っている」以前に、「とんちんかん」だというやつですね。こういう小学校のキャラクターたちが、小学生に「的を外したことを言ってはいけない」というふうに暗黙のうちに刷り込んでいなければいいなと思いますが…。
私も生まれてからずいぶん「とんちんかんな」感想を言ってきました。あとから自分で気が付くと、恥ずかしくなるようなたぐいのものです。それこそ礼拝後に感想を求められる教会の礼拝などでも、ずいぶん「恥ずかしい」感想を述べてきたと思います。でも、とんちんかんな感想を言う人がいるのは、自然な状態ですよね。最初に述べた『読書感想文のじょうずな書き方』の著者の言う通り、感想というものは、何を述べてもいいものですから。それに、ひととひととは、驚くほど異なるものですから。(これがもし「読書評論文」とかいうものであれば、それなりに評論を書かねばならなくなり、少し「国語」の課題としても、高度なものになってきますよね。)
…そうはわかっていても、感想を求められたら、的を外したくない気持ちは大きいなあ!でも、「正しい」「正しくない」以前に、「とんちんかん」な意見などを述べる人が出るのは、すごく自然な状態だと思います。とんちんかんな感想に、寛容でありたいと思います。