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人を裁くな、おのれも裁くな

 (いきなり聖書の話で始まりますが気になさらないでくださいね。)

 イエスは「人を裁くな」(新約聖書ルカによる福音書6章37節)と言いました。いま『聖書協会共同訳』から引用しましたが、この翻訳の『パイロット版』では「裁いてはならない」と訳されていました。たんに「裁くな」と書いてある聖書の翻訳もあります。これは、人を裁かないことを言っているだけではなく、おのれも裁かないことをも言っているのではないでしょうか。

 『夫は成長教に入信している』の作者の紀野しずくさんがインターネットのニュースでおっしゃっていました(その記事が検索で出ません。またも記憶で引用することをおゆるしください)。人を愛するように自分を愛することについて。再び聖書の言葉を出すと「隣人を自分のように愛しなさい」(新約聖書マタイによる福音書22章39節)とイエスは言っています。自分を愛するように人を愛するのか、人を愛するように自分を愛するのか。現代は自己愛が前提とできない世の中なのかもしれません。

 人を責めて、自分を責める。人に厳しく、自分にも厳しい。どうしてそんなに自分を甘やかすことがいけなくなっちゃったのでしょうか。自分の根本に「ダメ」がある人と「OK」がある人とでだいぶ違います。私は前者であり、自分の根本に「ダメ」があります。しかし、46歳になる今、その両親からの脱洗脳で生きようとしています。それにはたくさんの人の善意に触れる必要がありました。宗教の本質は「むしのよさ」です。むしがよく、あつかましく、ずうずうしく甘えて生きる。「なむあみだぶつ」と唱えるだけで極楽往生するという教えは、まさにむしがよいです。「立派に祈って」いるように見えるクリスチャンも、むしのいいことに、ああしてください、こうしないでくださいと祈っています。しかし、それを批判する言説のほうが力を持ってしまうのはなぜなのか。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(新約聖書ローマの信徒への手紙3章28節)というパウロの言いたいことは、「信じなければ救われない」ということではなく、「律法の行いによるのではない」というむしのよさです。われわれは、神に甘え、人に甘えます。もちろん神様はなかなか厳しいですが、少なくとも「裁くな」という言葉は、他者に対してだけ使われる言葉ではないと思います。人を裁くな、おのれも裁くな。弱さを抱えたまま生きる。厳しい修行に耐えなければ真理に到達できないと思うのは違うと思います。われわれはすでにもうたくさんの厳しさに接してきたではありませんか!せめて自分をいたわりましょう。人を愛するように自分を愛しましょう。

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