ぼんやりした深いつぶやき
なんだか、ここ最近ぼんやり思っていることがある。
それは「人って、とことん面白い構造してるな」ってこと。
色んなご縁や経緯があって、
人の心に携わるお仕事をしているわけだけども
クライアントさんを通して人間の
「複雑にしたがる思考構造」や
「人生がシンプルだと不安になる構造」とか
「悩みが無いと心配になる構造」って
どこから育まれているんだろう?って
なんだか興味津々。
そして、クライアントさんを通して
「私もこのクライアントさんの悩みの要素持っているなー」って
いつも感じさせてもらっている。
だから、相手の話を聞いてたら私も自分の事のように深く刺さって
泣けてくることがあるし
「しょーもないな」って笑いたくなる時もあるし
出来てない自分にイライラすることなんて
実は結構多いと思う。
(表には出てないけど)
クライアントさんからは
「すごく楽に生きてるように見られてる」みたいだけど
私自身が、ワタシの望む楽な状態で
自分を動かせているかと言われたら
答えはもちろん「NO」だ。
全くもって思い通りに進んでいない。
結局、願望でしかないことが多い。
行動が伴っていないことも多々ある。
人に「行動しないとですね!」とか散々言うくせに
私自身が、動けていないことも多いな、と思う。
じゃあ、なんで人からは
すごく楽に生きてるように見られるのかといえば
難しく考えないようにしているからかな、とは思う。
難しく考えるのって
やろうと思えば限りなく、終わりなく
どこまでも出来るんだよね。
あーでもない、こーでもないって
一人会議は一生続けられるし
実際、私の人生で一番会話をしているのも「ワタシ」。
一人二役で
悲劇のヒロインにもなれるし
世界一のアイドルにもなれるし
史上最恐の悪にもなれる。
だから、まずは私がワタシの一番の理解者であることを
しっかりと認めたうえで
ワタシの望んでいるニーズを私がきちんと汲み取って
ワタシを喜ばせてあげることが大切だよなって。
それが出来たら、
意外と悩むことってあんまりないんだよな。
あと、悩むのにもかなりエネルギー使うのを知っているから
別の行動にエネルギー使いたいというか。
悩む時間を行動のエネルギーに変えられたら
それだけで”悩む”以外の何かの経験が出来ているから。
だから、人から見ると
私は楽に生きてる方かもしれない。
そして、この前提があるから行動的にも見られている様子。
(どこを基準にしているかと言われると、私の狭い世界観だけどね)
こんな感じで
一見ふらふらと楽しそうに生きているように
見られるんだけども
さっきも言ったけど
私自身が、ワタシの望む楽な状態で
自分を動かせているかと言われたら
答えはもちろん「NO」だ。
あれやりたい!とか
これやりたい!とか
もっとお金があれば…
時間があれば…
容姿が美しければ…
スタイルが良ければ…
才能があれば…
なんて、考えだしたらキリがないくらい
「欲しいモノ」はある。
あるんだけども
実は、私はワタシの望む楽な状態じゃない
「NO」で良かったとさえ思っている。
思ってるように物事が進まなくて
苦しい事もたくさんあるし
悔しいことも
泣くことも
悲しむことも
嘆くことも
恥じることも
不貞腐れることも
傷つくこともあるんだけど。
NOだから
ワタシの本当の想いを汲み取ることが出来るし
ワタシが望む方向へ成長ができる。
完璧じゃないから
新しい経験がたくさんできる。
毎日が新鮮に感じられる。
NOだから
「こうなりたい!」って想いを
叶えていく原動力になる。
NOだから
小さな可能性に気づくことができる。
NOだから
【当たり前】なんてないってことに気づける。
NOだから
生まれた事に意味があると思える。
NOがあるから
YESを見つけたときの幸せを
人一倍感じられる。
なんか、ワタシが望んでいる欲しいモノって
たぶんコレじゃないってことも
一人会議をしまくってきたからわかるし
これじゃない!って「NO」を言えるから
道を間違えても戻ってこれる。
そして、結局このYES・NOの繰り返しでしか
たぶん人生って進んでいない気もしている。
なんか、こう感じられるのも
関わってくれる人がいるからなんだよなー。
って、ぼんやり思った。
子どものイヤイヤ期って、この感覚を育むためなのかもね。
なーんつって。