愛は"思い出"だから
人は誰しも誰かの代わりにはなり得ない、と私はずっと思っていて、それは私がこれまでに出会ってきた人たちとの関係を、"思い出"として認識しているからだ。
同じマンションに住んでいて一緒に登下校してたあの子も、私に楽器を教えてくれたあの子も、前と後ろの席でおしゃべりしている間に好きになったあの子も、「お前の描いた同人誌を読むまで死ねないから絵描くの続けろよ」と言ってくれたアイツも、神田で出会って以来私に全幅の信頼を寄せてくれているあの子も、何も言わずとも私を理解してくれているあの子も、初めて人前で泣いた私をただ抱きしめてくれたあの子も、毎日のように電話して人生相談をぶつけ合ったアイツも、西荻窪で滝のように酒を注いでくるあの子も、お酒を作りながら共同生活をしていたアイツも、夢と野望を語ってくれたあの人も、「あなたをワガママが言えるような人にしてあげたい」と言ってくれたあの人も、私にとっては、ぜんぶ一人しかいない。
"思い出"は、その人との関係を続けていく限り、ずっと更新されつづける。消えない。いい事も悪い事も。
それらをすべて胸の奥にしまい込んで、大切に保存すること。その人との体験やエピソードを、ひとつひとつ大事にしまっておくこと。これが、私の人との付き合い方だ。
ある人が「自分は誰かの代替品だから」「たまたま自分がここにいただけ」と言っているのを聞いたとき、私は心底驚いた。なぜなら、私はそれまで彼の作ったご飯を召し上がったり、一緒にもんじゃを食べに行ったり、朝になるまでずっとゲームをやったり、両手で数えても足りないくらいの"思い出"があったからだ。
だからそれを聞いたとき、少し悲しかったのを覚えている。いくら数えきれない思い出が私と彼の間にあったとしても、それは、「私が(いま目の前にいるこの人にとって)かけがえのない存在である」ということの証明にはならないんだな、と思った。
そういう事は往々にしてある。こっちがそうだと思っていたことが、向こうからしたら全くそうじゃなかった、みたいな。
例えば、私のことをあたたかく見守ってくれている誰かがいたとする。
その人は危なっかしい私を気にかけてくれたり、見守ってくれたり、私の出したSOSを拾って、手助けをしてくれる。
そういうことをされると、私は愛を感じる。「愛されているな、愛してくれているな」と思う。だけど、その人にとってはあくまで『人間として普通の事』をしているだけであって、別に私を「愛して」いるわけではなかった。という事もある。
受け手が「愛」と感じてしまうような行動を、特に「愛」としての意味を含めずに出力するような人。そういう人も、そういう人との出会いも、ある。
では、私はいったい何を信じればよいのか。何を信仰すればよいのか。そこで私が無意識に行きついた先が多分、”思い出”なんだと思う。
思い出だけは確かなものだからだ。私のその人の間に、事実として、確かに存在したものであるからだ。事実は揺るがないからだ。
だから、私は「誰一人として同じ人はいない」と思っているし、そう思っているのと同じくらい"思い出"、つまり過去を大切にするし、重要視するし、執着する。"思い出"を信仰しているから。それは裏を返せば、"思い出"しか信仰できない、ということでもある。
誰一人として同じ人はいないから、"思い出"もいつだって一つしかない。
だから、その人と私の間にある"思い出"のことを、私は「愛」と呼んでいる。