モスクワに留学していたら戦争が始まった話-7
↑前回 2月24日(開戦当日)の記録
それでも街は美しい
とくに起床後に予定があるわけでもないのに、朝がこれほどまでに恨めしいと思ったことはなかった。まだ空も明けきらない寒い部屋の中で起きだして、学校やアルバイトに向かわないといけない朝の方がまだいくらかマシなような気さえした。どん底近くまで沈み込んだ心中もさることながら、昨日の就寝前に感じ始めた胃と背中の痛みも顕著に表れており、まさしく文字通り心身ともに苦痛に包まれていた。
インターネットなど見たくもなかったが、自分の身がここにある以上は目を背けることもできなかった。やはり昨日起きたことは夢でも何でもなかったらしく、ロシア軍は着々とウクライナ領内に浸透していた。いくつかの都市が陥落したとの情報が流れてきたが、その中には私が2019年に列車でキエフを目指した時、朝焼けに照らされた国境の街の名前も含まれていた。あの駅で降りて行った、ウクライナパスポートを持った優しげな老夫婦の顔がふと頭に浮かんだ。
このあたりからSNSの調子が悪くなったような気がした。Twitterは時々読み込みが悪く、Instagramはメッセージの送受信にかなりのラグが生まれることがあった。それまでのロシアで規制されているSNSといえばLINEだったが、日本との煩雑なやり取りを考えなくてよいと思いあえて対策はしていなかった。しかしTwitterとInstagramが使いにくくなるのは私にとっては死活問題であり、検閲回避手段の定番であるVPNの導入を検討し始めた。
この日も相変わらず授業に出る気は起きず、午前中はベッドの上で突っ伏し続けていた。しかしこの日は幸いなことに、日本人留学生の大学同期が夕飯に誘ってくれたのだ。私を含めてたった3人だけ、6年をかけて大学を卒業することが確定している酔狂なロシア留学者がモスクワで揃う貴重な機会とあって、純粋に喜ばしかった。集合は夕方だったが、その日は郊外寄りの街の様子も見ておきたいと思い早々と寮から抜け出した。
地下鉄駅に向かうと、改札の係員が見たこともないような機械を手にしていた。姿形とサイズはちょうど甲類焼酎の2リッターボトルと同じくらいで、取っ手のついた灰色の胴体にはモニターが、先端にはセンサーらしきものが備わっていた。おそらく爆発物検査か何かだとは思うが、それまではモスクワの中でも比較的警備が緩いように思えた寮の最寄り駅にすら妙な緊張感が漂っていた。
郊外を目指すべく、中心部方面とは反対側の電車に乗る。買い物に行くときも郊外方面に乗るが、基本的には隣駅で降りるので少しばかり新鮮な気分である。そのまま終点まで乗っているつもりで古ぼけた車両の年季の入った革座席に身を任せていたが、ふと地下鉄駅まで歩く時の空の色が思い浮かんだ。昨日に引き続き異様なほどにに突き抜けた青空が、この乱れに乱れた心を癒すことは決してなかったが、やはり街を着飾る情景としてはたまらなく美しかった。殺風景な郊外のアパート群を青空が彩る様子を眺めるのもきっとまた一興かもしれないと考えつつ、普段通りの散歩コースが春の兆しに包まれる歓びを噛み締めようと予定より手前の駅で下車した。
「いつもの散歩コース」といっても1つではないのだが、この場合はモスクワ大学の主要棟でバスを降りて、モスクワ市街地を一望する展望台がある雀が丘を目指すルートのことを指す。雪をかき分けながら進む道は決して心地よいものではないが、悪路の途中から眺めるモスクワ大学の主要棟と、悪路を抜けた先にある雀が丘からの絶景は何物にも代えがたい美しい風景だった。暇さえあればこの道を幾度となく歩いたものだ。
零下の風とは裏腹に、ダウンコートに包まれた私の身体はむしろ汗ばむくらいの蒸し暑さすら感じていた。一歩一歩に足を取ってくる悪路もまたその内側の熱気に拍車をかけていたと思う。少しずつ、地平線のような断崖の向こうにモスクワ中心部の屋根たちが姿を覗かせ始める。
やっと着いた。もう何度見たかも分からない景色であり、健康的な精神状態でも一切ないのだが、反射的に顔が少しほころんだ。モスクワの近代、ソビエト、そして現代の輝きの全てを、ここからなら同時に視界に収めることができる。愚かな人間たちが作り上げたものであったとしても、そして蠢く憎悪が至る所に影を潜めていても、街そのものはやはり美しいのだ。
ふと時計に目をやると、友人たちとの待ち合わせまでに時間まで程よい残り時間になっていた。坂を下るバスに急ぎ足で乗り込み、中心地を目指す。
空は相変わらず雲の妨害を受けることなく澄ました表情を見せており、夜の帳が下りる寸前の薄い青と橙色を呈していた。木々の向こうには時々主要棟が姿を現した。坂を下った先にはいつの間にかモスクワ川が寄り添うように流れており、首を捻ると今度は雀が丘の上に顕然と輝く主要棟が見事に視界に入った。
ここで改めて時計を見て、急遽一旦下車することを決めた。おそらくバスは続いてやってくるだろうし、乗り換えを急げば時間には問題なく間に合うはずだと考えたのだ。
温暖な車内の空気とは打って変わって、外界に降り立った瞬間肌を刺すような冷気に襲われた。喧騒と静寂のバランスが程よく取れた、郊外と市街地の狭間のような地区には、寒の戻りで所々結氷したモスクワ川がゆったりと流れていた。その純白の氷は、春の兆しに抗う冬が残した最後の足跡かのように、静かに沈み輝いていた。
美しかった。ただひたすらに、その景色は美しかった。これ以上に美しい街がこれ以上にあるだろうか。きっと私が死ぬまで、その答えは否であろう。これ以上の景色に出会うなど、きっとそうそうないことだ。
しかし、こんなにきれいに夕陽が落ち、街は煌めき、川は冬の名残と共に静かに輝くのに、どうして心のほんの少しだけ深いところでは絶望的な気持ちにならないといけないのか。呆然と、何もなすすべなく、私は川辺に立ちすくんでいた。美しい夢と、醜悪な夢の狭間を浮遊しているような心地だった。「目の前に広がっている景色は私の愛する街」という事実以上に、その
裏に隠れた醜い文脈を、もはや無視できる状態にはなかった。
どっぷりと闇空が街を支配し、美しい朝焼けに再び空が染まるまで、何時間でもあの川べりに立っていられるような気がした。そんな病的な虚無から抜け出すことができたのは、きっと友人たちとの約束があったからだろう。
ひっきりなしにやってくるバスに乗り込んで、ターミナルを目指す。皮肉にも、ターミナルの名前はКиевский駅だった。もとより2020年以降は感染症の影響で国際列車は不通になっていたが、ほんの30時間ほど前の出来事で完全に希望は潰えてしまった。2019年にそこから隣国へと旅立ったことは、過去の幻想の1文として燃え尽きてしまったような心地だった。
そんな私の心など知りもせず、Киевский駅の駅看板は灯に照らされて輝いていた。端正に並ぶキリル文字はいつ見ても美しいものだった。思えば、私はこの不思議な文字を解読してみたいという軽い気持ちからロシア語に魅せられ、苛烈な渦に巻き込まれる首都まで来てしまった次第だ。
「自国が現在進行形で攻撃を仕掛けている街の名前が目の前にある」という状況を、街の人間たちは一体どのような気持ちで捉えていたのだろうか。様々な感情の内訳を把握することなど不可能だが、少なくとも私は、過去の美しい思い出を交えながら絶望していたと思う。過去も未来も、何もかもが蹂躙されてしまったのである。
目の前にある美しい文字と、街と、記憶の中にある輝く隣国の首都について交互に思いを巡らせながら、私はクレムリンの最高権力者のことを心底恨んだ。彼は大なり小なり、あらゆる人々の幸せと希望と生活と、美しい思い出を踏みにじり、破壊したのだ。世の中のありとあらゆる呪いを当人にぶつけても、足りないだろうと思った。
渦巻く感情は山のようにあったが、狂気となって自分自身に襲い掛かってくる前に、踵を返して足早に地下鉄駅へと向かった。
愛する広場と
友人たちとの待ち合わせ場所は、クレムリンから川を挟んだ対岸に位置するТретьяковская駅になっていた。地下鉄のКиевская駅から青色の路線に乗って、赤の広場の最寄り駅であるПлощадь Революции駅で緑色の路線に乗り換えればすぐに辿り着くことができる場所だった。
しかしПлощадь Революции駅に辿り着こうとしたとき、ふと赤の広場に降り立ってみたいような気がしたのだ。何度も言っているように、あの広場は真に美しいと思える場所なので、少しでも機会があれば幾度となく歩いてみたいと常日頃思っていた。
ただその日ばかりは、この世界を一瞬にして絶望に陥れた政権指導部に対する怨恨の念を、可能な限り近くで静かにぶつけてやりたかったのだ。
待ち合わせ時間まで40分ほど。遅刻がちな友人ということもあって、赤の広場から橋を渡ってТретьяковская駅まで向かっても余裕はありそうだ。
そう考えた私の足は、気が付いたら赤の広場へと向かっていた。冬空に煌めく豪華絢爛な建築物と、その奥に見える発電所の豪快な蒸気たちには心躍らされるものだ。しかし今日ばかりは、ただその景色を楽しむだけでは済まない感情を抱いて石畳を踏みしめていた。
広場の入口には特にイベントがあるわけでもないはずなのに、警戒用のガードポールが跳ね上がっていた。人々の往来に関しては何ら妨げられることはないが、数日前の日常とは異なる何かを漂わせていた。
やはり奇妙だったのは、その異変にも、そして全ての前提条件をひっくり返してしまった日常の大きな変化にも気に留める様子がない人々の姿だった。この1300万人都市の最も中核たる憩いの場で、相も変わらず市民たちはごく普通の冬の日の夕べの愉しみを享受していた。
昨晩の取り付け騒ぎを見ている限り、市民たちがあの大きな出来事を知らないはずがないのである。緊張感ばかり漂う街というのも勘弁してほしいものだが、この享楽に満ちた広場と国境地帯で起きているであろうことのギャップは本当に恐ろしいものだった。
そしてクレムリンの屋根には、相も変わらず大統領旗が風になびいて堂々としていた。あの「ご本人様」があそこに鎮座しているとは信じ難かったが、その時の私にはありったけの恨みを念じることしかできなかった。
私が受けた絶望など、真の当事者にとってはあまりにもちっぽけなものかもしれないが、モスクワに居る以上はこうする他に直接的な手法は存在しなかったのだ。
これほどまでに街が美しいのに——この先幾度となく思うことである。最も辛く厳しい季節がようやっと明けようとしていることが、灰色の雲を圧倒する紺色の空からも感じ取ることができた。
どうしようもない絶望感から少しでも早く抜け出したいと思いつつも、この街の爽やかで甘美な夏を見る前に去るのは心残りだった。クレムリンの裏の川の氷は、ほとんど完全に溶け切っていた。
親愛なる友人たちへ
友人たちはほとんど定刻でТретьяковская駅に集合した。お通夜のような雰囲気になってしまったら嫌だなと思っていたが、案外会ってみると明るく、普段通りの快活な様子だった。募る思いがあるからこそ、気の知った仲間に会えると心底嬉しいわけだ。
レストランの案は幾つかあったが、旧ソ連圏のレストランでは一番無難どころであるジョージア料理店に行くことにした。どこにいても味付けが良く、リーズナブルに食べられることが多いので、食のレパートリーに飢えてきたらとりあえずジョージア料理を食べておけば間違いがない。それでいて、旧ソ連の主要都市なら大抵どこにもあるのが魅力的である。
オススメは不思議な形をしたチーズパンのハチャプリだろうか。ジョージア料理には多彩なラインナップがあるとはいえ、味もボリュームもコンテンツ性も断トツなので、基本的にはコレをほぼ反射的に注文することになる。
友人たちとの主な話題はどうしても戦争関連のことになってしまった。具体的な固有名詞を言わなければ、あまり遠慮することなく好き放題言えることが日本語話者同士の集まりのいいところだろうか。
しかしその時には意外にも、決して絶望一辺倒という話題ばかりではなかった。当然不安も山のようにあったわけだが、同時に状況としてはあまりにも初期であり、良くも悪くも先行きが全く見えないゆえの楽観的観測も存在しえたのだ。
友人の1人はモスクワではなく、もう少し東の都市に留学しており、一時帰国のためにモスクワに立ち寄っていた。本人も、私も、そして他の友人も、彼がまたロシアに戻ってくることを信じていた。それは同時に、私がこの先モスクワに居続けるつもりであることもまた意味していたのだ。
目先の絶望を少しでも和らげるために、先のいろいろな話をした。友人が再びロシアに帰ってきたら、彼が留学している東の都市に遊びに行くと、そう約束した。広いロシア、極東こそ日本から近いのだが、やはりシベリア以西は自分にとっての未開の地だった。
当然のごとく2軒目に行き、もはや全く思い出すことすらできない中身のない話ばかりで盛り上がった。逃避なのかもしれないが、絶望の中にも友との楽しみはきちんと存在しえたのである。当事者としての度合いや角度は全く異なるが、モスクワの市民たちもこうして表向きは陽気に生きていたのかもしれないと、今になってふと思った。
そうして夜も更けた頃に会は解散となり、私は月明かりの差す寂しげな寮に戻ることとなった。アルコールが幸せな眠りに誘ってくれた2日前の夜とは異なり、1人になると再び底知れぬ絶望が私を包んだ。
戦争が始まってから毎晩毎晩、その都度私が何を思っていたのかということはもはや思い出すことができない。しかし、ひと晩たりとも安息たる夜を過ごすことができなかったことだけははっきりと覚えている。それは友人たちと大いに盛り上がった日ですら、例外ではなかった。
絶望と、喜びと、それらを緩やかに包括する麻痺——その複雑な感情のフローは、奇妙に入り組みながらも日常として私の暮らしに共存しようとしていた。
(つづく)