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齊藤〇美装のプロフィール

齊藤〇美装の代表をしております。

プロフィールって、簡単に書けばいいものなのか、事細かく書けばいいものなのか、いつもよく分からず書いています。

僕のプロフィールを見に来るくらいならそれなりに時間があると仮定して、事細かく書きました。

よろしくお付き合いください。

生まれ

1980年(昭和55年)3月2日生まれ
さる年のうお座。
清水市田町にあった旧清水厚生病院で生まれる。
生まれも育ちも、ちびまる子ちゃんや次郎長の清水市です。
3人兄弟の長男。

2才くらいのとき

誰にでも『カ・ワ・イ・イ~』と言われる時期がある。
そう、僕にもその時期はあった。

弟や妹が何かやらかしたときの責任を「お兄ちゃんなんだから」と押し付けられるのがたまらなく嫌だった。

それに、未成年だからと何をするにも社会的に親の承認がいる。

いつも早く大人になりたい、そう思っていた。

そろばんをはじめる

6才くらいのとき

小さいころ。妹が生まれたばかりなので、多分6歳くらいの時です。

このころからそろばんを習い始める。

一緒にそろばんを習っていた杉山ひろもと君は親の仕事の事情で転校してしまった。

僕は仲良しの君が行くから行こうと決断したのに、、、とそんなことを思いながら、適度にサボりながら通い続けた。

僕の通っていたそろばん教室のK先生。冬に石油ファンヒーターを焚いてくれるのはありがたいんだけど設定温度28度はやりすぎでしたよ。
おかげでそろばんやりながらハァハァしちゃって汗かきましたよ。
K先生だけでしたよ、あんな暑い部屋の中で涼しい顔してたの、マジで気付いてほしかった。
そろばんの習い事が終わって帰るときの外に出た瞬間、熱帯と化していた部屋からの解放感と空気の冷たさはすごく気持ちよかった。

そういえば弟もそろばんを習い始めたが、早々にリタイア。
そろばんはおもちゃと化す。

人間向き不向きがあるというのを学習した。

小学生時代

10才くらいのとき

小学校3年生くらいの時の写真。

学校でおしっこを漏らしてしまうクセがこのころやっと治った。
幼稚園の時はお漏らしなんかしなかったのに、環境の変化に心が対応しきれていなかったんだろうか。心理学の先生でも何でもないからよく分からんですが。

この頃から花粉症に悩まされる。
目はしょぼしょぼ、鼻水ジュルジュル、横になると鼻が詰まり起きると鼻が通る、朝起きると目やにで目が明かない、吐き気、発熱、倦怠感、意識もうろう、眠れないのに眠気だけはある、インフルエンザの方が気が楽なくらいの症状に悩まされた。当時はあまり花粉症は認知されておらず、気がたるんでるからとか、だらしないからそうなるとかいろいろ言われた。

体がそんなに強いわけではないんでしょう。
マイコプラズマ肺炎、脊髄炎等の子供が掛かりやすい病気にも、さらには学校の行事の冬のマラソンを走るとたいがいインフルエンザにかかっていた。

一生の内でTOP3に入る激痛を味わう。
忘れもしない、小学4年生の時。
学年で1・2を争うようなかわいい女の子Kさんにキ○タマを蹴り上げられ悶絶した。男にしか分からないこの痛みと苦しみ。
蹴られる数秒前からの「えいっ!」と言って蹴り上げられたときの映像はいまだに脳裏に焼き付いている。
「何で苦しんでるの?」と周りがざわつき始め、蹴った当人は「わからない」ときた。
蹴っちゃダメなところを蹴ったでしょ?
心臓や肺などは骨や筋肉に覆われているのになぜ神経むき出しの弱点が外にさらされているのか?
ふざけていいことと悪いことがある。
といっても幸い大事には至らなかった。
クルミの殻を割るたびにこの時のことを思い出す体になってしまったが、ひよこを扱うようなデリケートさが要求されるということを学んでくれていたら僕も溜飲が下がる。

女の子にキ○タマを蹴り上げられたのと同じ年に、同じクラスの女の子Iさんから人生で初めてラブレターをもらった。
当時まだそういったことに対してどう反応していいのか分からず、せっかく勇気を出して書いてくれたことに対して受け止めてあげることが出来なかった。甘酸っぱい思い出。

中学生時代

13才くらいのとき

中学校のときの写真。

部活は剣道部だった。日曜日も練習しろと言われ、それを言い出した顧問の中村先生は部活に顔も出さないものだから、貸し切り状態の体育館で木刀をバット代わりにしてバレーボールやバスケットボールを思いっきりぶっ叩いて遊んだのは楽しかった。
ものすごい手応えがあってぶっ飛んでいくから面白かった。
とはいえ、普段の部活は相当にきつい日課をこなしていた。
しっかりあごをつけてやる腕立て伏せならぬ指立伏せ200回、ジャンピングスクワット200回、腹筋200回、背筋200回、うさぎ跳び100回、素振り1000本、10km走を毎日こなした。月曜日と木曜日は剣道道場にも行った。
あまりにハードすぎて脱水症状からか足がよく痙攣した。
大会では剣道が特別うまいわけではないのに、そんな体力づくりを日課にしていたせいか、多少の体格の違いをものともせず体力で打ち負かすということがよくあった。
やる気のない顧問と5人の部員(団体戦で出場するギリギリ)しかいないにもかかわらず、ちゃんとした顧問に盛大な応援団と20人以上の部員がいる学校に勝つのは爽快だった。
市の大会で優勝したこともあったっけ。

高校生時代

秋葉幼稚園、庵原小学校・庵原中学校を卒業。
清水市立商業高等学校(現在の桜ケ丘高等学校)に入学。
サッカーで有名な清商(きよしょう)です。
同学年にJリーガーになった人が何人かいます。(小野伸二とか)

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清水市立商業高等学校在学中は珠算に打ち込む。
1年生の時は3級でしたが、最終的には2段まで取得。
しかし、僕は指が太くて短いから指がこれ以上速く動かなかったので、応用計算(文章問題)に力を入れ6段の点数を取るまでに至る。
といっても普通の人からすれば速いけどね。(寝起き直後に1級の問題を制限時間内に余裕で2回計算できる速さ程度です。)

僕が一番得意だったのは応用計算(文章問題)。
数字だけ入れ替わっているよく出る問題かどうか、少ない計算回数で答えが出せるかどうか、どう計算すると端数が出ずに簡単に計算できるかの計算する順番、問題を読まずとも見ただけで瞬間的に判断できるまでただひたすら毎日問題を解いていた。
計算のスピードは2段レベルでも、この応用計算の点数だけは6段の点数を取っていた。
顧問の深澤先生も僕のそんな特性に合わせて応用計算の解き方を教えてくれたっけ。

10段でもレギュラーになれない学校がある中、運が良かったのか、県大会での入賞、東海大会(岐阜)、全国大会(高松)へ出場出来てしまった。
◉県大会での応用計算個人の部で3位入賞
◉第19回東海地区高等学校商業実務競技大会出場
◉第44回全国高等学校珠算競技大会出場

大会で隣の人が異常に計算早いとパチパチいうそろばんの音に心を乱されるんです。
凄い人はパチパチじゃなくてビチビチって音が鳴ります。
指の関節が何個あるのか疑いたくなる。
ある意味、マシンガン相手にピストルで勝負に挑んでいる気分。
弾数も精度も向こうが上。
自分は自分、ただひたすら練習通りやるのみと平常心を保つ悟りをこのとき開いた。
大会だからと言って漫画のように普段の実力以上の点数が取れることは、ことそろばんに置いて絶対にありえないのです。
全てにおいて自分との闘い。
練習で出した最高得点を本番でいかに取るか、それが珠算です。

全国大会に行ったと言っても、部員は各学年に1人しかいない廃部寸前の部活でしたけどね。

同じ時期、清商のサッカー部も全国大会に勝ち進んでいたんですが、扱いが全然違うの。
体育館の2階からは垂れ幕なんか出しちゃって。
珠算部のための垂れ幕は一つも作っては貰えなかった。
全校生徒を前に壇上に上がった時に全国大会に向けてひと言お願いしますと言われたので、本当にひと言「頑張ってきます」とだけ言ったら「そんだけかよ!」と誰かがでかい声で突っ込んできた。
誰や、あのときヤジ飛ばしたの。
未だにその言葉覚えてるぞ。

結局僕が卒業してから何年か後に廃部になっちゃったようです。

この頃からか、人間関係に常に違和感を感じるようになる。
いやもっと小さい時からか。

気が合わないというか、会話がズレるというか、同級生のものの考え方や使う言葉について違和感があったように思う。

専門学生時代

19才くらいのとき

産業技術専門学校での修学旅行、オーストリアのウィーンで。

北海道とアメリカとオーストリア、選択肢があったんだけどどうせ行くなら一番遠いところに行こうと思ってオーストリアにしました。

はじめて飛行機に乗りましたが、気圧の関係か腸が弱い僕には耐えがたい苦痛でした。お腹がずーっとゴロゴロゴロゴロしてたんです。整腸剤のビオフェルミンが手放せませんでした。
飛行機の中で音を立てないように気を使ってすかしっ屁をしたら想像以上に臭くて隣に座っていた友人の稲葉君は無言のまま顔をゆがませていた。
あのときはゴメンね稲葉君。

そういえば、専門学校在学中にクルマに3回はねられたことを思い出した。

1回目。バックしてきたトラックの後方不注意ではねられた。カバンに入れていたノートパソコンも破損した。
2回目。パン屋の店先で路上駐車しているクルマに乗るおばちゃんが後方不注意でドアを開けたもんだから、乗っていた自転車を引っ掛けられ3~4mは吹き飛んだ。柔道の授業で前回り受け身を習っていたから良かったものの顔から突っ込んでたらヤバかった。
3回目。横断歩道を渡っているときに前方不注意の右折車両に正面衝突された。

一年間にクルマに3回もはねられたので、厄は落ちたと思う。

未だにそのときの後遺症で右手がひん曲がっています。
あまり右手を使いすぎるとしばらくの間、力が入れられなくなる感じで動かなくなります。
チカラに頼らずに技術を磨くことが出来る体になってしまいました。

専門学校では、第二種情報処理技術者試験という国家資格(今は情報処理技術者試験制度というらしい)を取得するためにコンピュータの授業がありましたが、こんなもん何の役に立つんだと思ってました。
資格は取りましたが。
なので、独学でデータベースなどの実務的なコンピュータの知識を勉強した。
そのときに身に付いた「ものの考え方」が今の仕事にもすごく活かされているように思う。

社会人としてのスタート

2000年4月、国吉田にある静岡中部合成株式会社に経理で入社。

入社祝いとして会社の社長と総務部長と同期のカオリちゃんとかつ蔵でとんかつ定食を食べた。

美味しかったなぁ。そして、定年まで勤めあげることになるんだろうなぁ、、、そう思ってました。

経理職は社長と同じ数字が見れる立場。

このままでは会社がまずいと感じ、出来る限りの余計なことに気を回し、空回りしうつ病に。

すぐにでも辞めたかったが、入社一年しか経っていないのに自分にしか出来ない仕事をたくさん抱えており、「頼むからあと1年いてくれ」と言われ、真面目に履行しウツは加速。

総務部のM部長に言われた「あなたが死んでも大丈夫なようにしてください」と言われた言葉は、色んな意味でも一生忘れられません。

複数人が掛かりっきりで1週間かかっていた仕事を、一人で一日で終わるようにするなど、仕事を効率化することだけがこの時期唯一興味が持てたことだった。

それを笠に着て有給休暇を全て消費した上、会社に行きたくない辛い日は自分の都合で全て休んだ。

休んだ日は近くの興津川で石を投げてボチャンと鳴る音に耳を傾けてることでかろうじて精神を保っていた。

そして、M部長の言われた通り、僕が担当していた仕事を全てマニュアル化、そのテキスト量はたしか電話帳のような厚さになっていた。

若気の至り。だいぶ傍若無人な態度だったと思う。

2002年、静岡中部合成株式会社を退社。再就職先を見つける気力もない。ハローワークで失業保険の手続きをする気力もない。親には仕事に行ってくると言い、その足で三保の松原に行き、砂浜で日向ぼっこして寝っ転がりながら何の小説か忘れましたが読書にふけっていました。すぐ飽きましたが。

うつ病を患いながら、考え事しながら、半分意識がもうろうとした状態で過ごしたこの時期の記憶がだいぶ薄いです。
手に力が入らなくなり字がちゃんと書けなくなって難儀したことは覚えています。

以降、数年間は自分が何に向いているのか分からなくなり、色々な仕事を転々とする。

結局、数字を扱う仕事は得意だけど、向いてはいなかったと結論付ける。

毎日同じ時間の出勤、同じメンバー、同じ場所、同じ仕事の繰り返し、というのがとても耐えられない。
そろばんやっていたのに不思議。
なぜ学校は不登校にならずに済んでいたのだろうか。
自分でも訳分かんない。
だけどそうなんだからしょうがない。

趣味に打ち込んでみる

手作りバイク塾

手作りバイク塾3期生

実は2000年ころから同級生がオートバイに乗っているを知り、見ているうちに自分も欲しくなり免許を取って乗っていた。
そのうち、色々なバイクに乗りたくなり、売っては買いと繰り返すがお金がそんなにある訳じゃない。
幸い、僕が住んでいるのは港のある清水。
当時は解体屋と言われる輸出に出す中古のオートバイがたくさん置いてある場所がたくさんあった。
そこに行って修理にあんまりお金が掛かりそうのないオートバイを探しては直して乗るというのを弟とやっていた。
中には当てが外れてババを引いてしまいエライ苦労することもあったのはいい思い出。
家の玄関を酸っぱい匂いのする腐ったガソリンまみれにしてオカンに怒られたこともあった。

ホーネット250→GSX1400→KSR80→KTM200EXC→・・・というバイクを乗り継いできました。
その中で特に原付の軽さと値段の安さに惹かれ、、、
TZM50、TZR50、TZR50R、TDR50、TDR80、NS1、KSR80、DT50、DT80(TDR80のエンジン載せ替え)、、、
ざっと思い出すだけでも原付はこんな感じで色々乗り回しました、、、弟と。
車種から分かる通り、ヤマハが好きです。
清水は港が近いこともあって、オートバイなどを輸出専門に取り扱う「解体屋」と言われる店?というか土地?場所?があります。(最近はだいぶ少なくなってしまいましたが、、、)
そこで自分が欲しい車種を足しげく通い相場より安く手に入れていました。
たまにとんでもない壊れ方をしているものがあるので、それを見極める目もないと、えらい目にあいます。
たいがいエンジンオイルとラジエーター水とプラグ交換で動くだろうというものだけを狙っていました。
で、直したらそれは弟と一緒に山に乗って行き、通称「ぶっこわしバイク」と呼び、バイクは壊れてもいいけどケガだけはしないようにエンジン全開で走りまくってました。
そのときに雪が降る山にろくな防寒もせず行ったら低体温症の症状が出て弟と二人コンビニの駐車場でバイクから降りたくても足が全く動かなくて降りられない状態で固まっていたことを思い出します。
本当に無謀なことばかりしていました。
何回転んだかは覚えていませんが、転んで地面にたたきつけられる瞬間に前身の力を抜いて衝撃を和らげるスキルが身に付きました。
おかげでケガというケガはしたことがありません。
買って直して走るのも楽しかったですが、解体屋ごとに特色があって、ただ見ているだけでも楽しかったです。
弟はそこで1000円と言われた部品を「今100円しかない」と言って1/10に値切るスキルを身に付けていました。
さすがに商売っ気のないその解体屋はもう潰れましたね。
弟が潰したという風にネタにしています。

・・・そんな風にたくさんのオートバイを乗り継いでいる内に、オートバイにも好みが出てくる。
こういうデザインがいい、こういう音がいい、そんな風に理想を追い求めているとピッタリ当てはまるオートバイがないことに気付いた。
自分にとっての究極の一台って難しい。
オフロードもオンロードもと欲張り、加速、トルク、軽さ、安定性、重量感、快適性、足つき性、積載性、操作性、色かたちの好み、、、
全てを満たすということは矛盾しますので無理なことがそれだけの経験をした末よく分かりました。(もっと早く気づけよと思います)
なので複数台持ちになってしまうんだと思っています。(からだは一個しかないのに。。。)
分からない人には一生理解されない感覚ですね。

色々悩んだ末「オートバイ作っちゃえばいいんじゃないか?」そう思ってインターネットで情報収集をしていたある日、クルマメーカーのマツダでトンネルを掘る削岩機を設計していた人が早期退社をして、その仕事で培った設計製作の知識経験を活かしてオートバイづくりをしていると目にした。
「行くしかない!!だけど金がない。。。」たしかそう思ってから半年ほどで100万円ほどを貯め、講習料60万円+3ヶ月の生活費40万円を握りしめ、オートバイを手作りする技術を学びに広島へ行った。
そして広島からこれに乗って帰ってきた。
約700kmくらいあった。
50ccのエンジンだからいわゆる原付なので高速はもちろんバイパスにすら乗れない。
大阪で国道2号線と1号線が切り替わるところで迷子になった。
たしかマップルを片手に「今、どこにいるんだ?」と途方にくれたのを覚えている。
京都の東本願寺近くに同級生が当時住んでいたこともあり、一泊させてもらってすごく助かった。
帰りの道中の三重では雨も降った。
シートが固くて尻の皮がむけて猿のようになっていた。
風呂に入った時すごく染みて痛かった。
それも今はいい思い出だ。

「ちゃんと就職しろ」と親からくぎを刺されたが、うつ病が再発するくらいなら僕は我が道を行く。不安がないわけじゃないんだけどね。

一番長く働いた会社

日興通信株式会社静岡支社に派遣で働くようになる。
通信の会社なんですが、僕はFAXすら使ったことがない。
たしか働き始めてすぐのころ、FAX送っておいてと頼まれたんですが、「使ったことがないので分かりません」と言ったら、「ふざけんなよ」みたいな感じで言われた。
しょうがないじゃん、使ったことなかったんだから。
この会社には4年ほどおりましたが、最初の一年は毎日怒られっぱなし。
毎日、いつ辞めようかばかり考えていた。
僕が担当していたのは古い機械の修理が多かった。
当然、メーカーにはもう部品がない。
お客様はそれをだましだまし使っている状態。
よくあったのは不具合が起きたと電話が掛かってきて、僕が現場に行くと不具合が収まってしまっている。
しょうがないから帰るんだけど帰った後にまた不具合が起きる。
こういうことは他の人もよくあるらしい、不思議な現象。
機械は人を見て見栄を張っているのかもしれない。
最終的には僕にしか出来ない修理方法を編み出したりして、手作りバイク塾で教わったモノづくりの考え方や設計図の作り方が役にたったように思う。
正社員にならないか?と言われましたが、この会社この仕事がどうしても好きになれず辞めることにしました。

辞める少し前の2007年ごろ、親が経営するデザイン会社の大得意先が会社をたたむことに。
家の中がそのせいでバタバタする。
そのときに簿記の勉強をもう一度やり直してしっかり経理の道に行くか、
それともウツの根本原因を断つことが出来そうな独立の道を行くのか、
決断をしなければならないと感じた。

独立する

あけぼの

フランチャイズとして窓専門のリフォーム業で独立をする。

手持ち現金が3万円を切り、食費を削り、ガソリン代を捻出したっけ。
耐えられるストレスと耐えられないストレスがある。
やったことない会社経営、やったことない営業、やったことないリフォーム業。
おまけに人見知り、口下手。コネなし、知識なし、経験なし。
だけどがむしゃらにやっていれば、諦めなければ、自分なりのスタイルが見つかり上手くいく。

クレームほぼ0、契約率95%超え、年商も大台に乗る。
暗中模索でそうなるまでに2年かかった。
逆に誰にも教わらなかったのが良かった、今はそう思う。

それなりの契約が決まった日はとんかつ屋でとんかつを食うのが日課のようになってしまった。そのせいで少しずつ太りだしたのもこの時期。

体重の増加とともに事業経営にも確かな手ごたえを感じた。

この仕事を始めた当初、Tという人間を職人として雇った。
彼は僕の学生時代の同級生でもあった。
根は良いやつだと知っていたから現場でもまじめにやっているものだと思っていた。
もしかしたら最初のころはそうだったのかもしれない。
しかし、ある日、僕の携帯にお客さんから「窓ガラスのところから雨漏りするんだけど」と電話が掛かってきた。
僕はすぐにそのお客さんのところに駆けつけました。確認してみると、本当は5mmの部材を入れないといけないところに3mmの部材が入っていた。あと2mmの隙間をどうしてあったのかというと、コーキング(ゴム状のボンドみたいなもの)でところどころ点付けして、ぱっと見はキレイに仕上がったように見えるようになっていた。
だから隙間だらけでそこから雨が入ってくる状態だった。
僕はこのときの感情をひと言では言い表せない。
とても冷静ではいられなかった。
こうした現場が一つあったということは他にもあるということです。
僕は全てのお客様宛に手紙を送った。
「何か不具合はございませんか?」という感じで。
そしたらめちゃくちゃ一杯電話が掛かってきた。
一つ一つ僕自身が現場に出向いて謝罪と手直しの施工をさせていただいた。
怒られもしたが、大問題となる前に手が打てて本当に良かった。
あのとき、寛容に手直しの施工をさせていただき、お客様には大変感謝しています。

そんなことがあったから、僕は学生時代からの彼との人間関係よりも、仕事に対する自らの信念を優先し、彼を解雇し縁を切った。
僕自身、神経質な性格をしているのは分かってはいる。
しかし、効率を良くする合理的な施工と、手抜きの施工は全く意味が違う。
こうしろああしろと一つ一つ指示すれば解決できる問題ではないと思った。
そういう対応はモグラたたきにしかならない。
解雇するという結論を出すまでにTとは散々話し合ったがそうした「性根」の部分は本人が直そうと苦しみ努力する以外に変えることは出来ない。
努力したうえでしてしまった失敗だったら、改善するまで一緒に耐えよう。
この問題は根が深く僕が問題として考えていることを彼自身が問題として捉えていないと判断し決断した。
人を変えようとすることはおこがましいことであると悟った。

この出来事があって以来、僕は現場での施工が自分の納得いくものでないと安心して寝むれなくなってしまいました。
定期的にお客様に対して手紙を送るようにもなりました。
施工そのものに不具合がなかったとしても経年劣化で不具合が起きることがあり得るからです。
形あるものはいつか壊れます。
それは僕の力が及ばない部分ではありますが、僕に出来ることはあります。
サッシ屋さんやガラス屋さんが面倒くさがってあまりやろうとしない部品交換や建付け調整の技術や知識をとことん追求するようになったのもこのころです。
そのために自宅のサッシを何度も分解しては組み立て、構造の勉強をしたり、調整の技術を磨きました。
たいていの業者さんは、「サッシごと全部交換しましょう」というリフォームを勧めてきます。
他の業者さんが部品交換を面倒くさがる嫌がる理由は、現物を見て部品を発注するしかないからです。
しかも現物が壊れている場合もあります。
ほんの少しの寸法が違うだけで見た目がほとんど同じ部品はザラにあります。
お菓子のメーカーで有名な「明治」ですらサッシを作っていた時期があるくらいです。
サッシメーカーの統廃合、グレードの細分化、モデルチェンジ、こうしたことが頻繁にある訳ですから複雑極まりないのです。
手作りバイク塾で教わった、寸法の測り方、設計図の書き方がこんなところで生きるとは思いませんでした。

はじめての本

そんな風に窓ガラスに関わってきた経験を本にしたらお客さんから好評でした。だけどたった60ページの本を作るのに一年かかってしまいました。

表紙の絵は、小学校のころから付き合いのある、大阪芸大を出て芸術家として活躍する田雑芳一氏に書いてもらった。ありがとう!

元嫁との離婚

2007年10月?ごろ。

今となっては元嫁との離婚。

つらい記憶は自分を守るために封印されるらしいですね。このころの記憶があまりない。

とある日の深夜、、、
元嫁の両親と元嫁の親せき(元嫁姉の旦那)と元嫁本人に監禁され、離婚届のサインを迫られる。

「娘を大事にしていない!」

このとき元嫁と2人で借りていたアパートにそう怒鳴りこんできた元嫁の父親。

そういえばその何日か前?何週間か前?に元嫁の父親から「あんたの親に相談するぞ」とケンカ腰で電話があったっけ。

あまりの認識の違いに怒りは沸かず、ただただ呆然とした。

僕は一日22時間労働しながらも家の中のことをこなしていた。
気が付いたら玄関で力尽きて寝てたこともある。

一方、夜になっても家に帰ってこない、温泉でのアルバイトの役得であった従業員割引での温泉入浴に日の出とともに朝飯も作らず家を出る、家の中のことをほとんど何もやらない元嫁。
これは徐々にそうなっていったのではなく、結婚初日からはじまったことです。
しかし、好きで結婚したんだから3年間は自分の出来る限りの努力をしてみよう、そう思っていました。

僕はあまりの激務に「もしかして死ぬんじゃないか」と思い、そう思うたびにいつ死んでも恥ずかしくないように、自分で顔をおもいっきりぶん殴って目を覚まし、部屋を掃除してから出掛けていた。
掃除機なんてお金が無くて買えないから雑巾がけしてた。
悲しいという感情を感じるだけの余裕がなかったのか、不思議と涙は出なかった。

「人の金を使いやがって」

元嫁の親からそう言われたが、資金的な援助は一切受けておらず、皆目見当つかず。

その場で離婚届にサインをしないと絶対に帰らないと言われ、僕は「好きで一緒になったわけだから、3年間は色々試行錯誤していきたいと思う」と言い放ったその言葉と思いはむなしく空を切った。

元嫁本人からは「お金に余裕がある人だったら誰でも良かった」と言われたときに僕の中で何かが壊れた。

元嫁姉の旦那からは「お前にはもっと相応しい女が見つかる」何度もそう諭そうとしてきたが、その言葉が好意的な解釈ではないことはさすがの僕もよく分かっていた。

「あとでそんな離婚届なんか書いてないって言われちゃ敵わないから」そう言い放った元嫁の母親は僕が床に置いてある離婚届にサインしているとき、ある意味土下座しているように見える態勢をデジカメで何枚も写真を撮っていた。
ずっと正座していたので足の感覚がないのと同時に、心も痺れて悲しいという感覚さえも失っていた。

幸い、今回の出来事について僕は自らを責め立て思いつめるまでには至らなかった。
もし、自責の念に駆られ、それに乗じて今回のように責め立てられたら、多分、自らを傷つけるか人を傷つけることに逃げたことだろうと思う。

人は人とのつながりの中で生きている。
しかし自らが完全に他人に理解されることはない。
少なからず勘違いされながら生き、勘違いされながら死んでいく。
それを踏まえたうえでも受け入れがたいことだった。
僕は「当事者として自らに責任の一端はあったとは思うけど、ここまで一方的に責め立てられこのような仕打ちを受ける謂れはない!」と心に持てたことが本当に良かった。
至らなかったとはいえ、不倫をしたり(僕にそんな甲斐性はない)、人として後ろ指をさされるようなことは一切していないから。
だから自らの人生を自ら選択することが出来た。
その冷静さは持てた。
しかし、心が負ったキズは大きく、しばらく夢を見ているような感覚だった。

僕が営む事業の取引先が経営する自動車販売修理工場を通して、元嫁から借りていたクルマの修理代40万円の請求が来た。
たしかに仕事に使うクルマとして借りてはいたけど絶対にこれは当てつけだろ、そう思った。
それにダイハツのブーンというそんなに高くないクルマに、どこをどうしたら40万円もの修理代が掛かるの?そうとう吹っ掛けているでしょ。
今なら冷静にそう思えることも、このときは冷静さを欠いていて真に受けてしまいました。
このときお金がなかったので、ほとほと困ってしまいました。
廃棄のおにぎりを毎日一つずつ電子レンジで解凍して食べて浮かしたお金で車のガソリン代を捻出していましたから。
ほっとく訳にもいかないと思い、弁護士が無料相談してくれるタイミングで相談しに行ったら「手切れ金だと思って諦めて払った方がすっきりしていいんじゃないの?」とつれない返事。
弁護士をはじめとした専門家ってすぐに「出来ない理由」を言う。
そうじゃなくて僕は「お金がないから払えないわけで、払わずに済む知恵を借りたくてあなたに相談したんですよ!」と心の中で叫んだ。

それでもなんとか事業が軌道に乗り、初めての入金があった。
だけど元嫁のクルマの修理代を払って再度スッカラカン。
元嫁さようなら、二度と会うことはないでしょう。
支払期日ギリギリの日に支払ったんだけど、それまでの間に僕の知り合いTさんに元嫁の母親が電話したらしく、そのときに「本当にクルマの修理代40万円を払ってもらえるものかしら?」と訳の分からん問い合わせがあったぞと僕のところにTさんから連絡があった。
元嫁との子供が出来る前に別れることになって正解だったなと思った。
あのときTさんには迷惑かけて申し訳なかったです。
Tさんとは今も交流があり仲良くさせてもらってます。
ありがとう。

最も強い魂は受難から生まれる。最も大きな人格は切り傷に覆われている。
– ハリール・ジブラーン(20世紀初頭のオスマン帝国人)
Out of suffering have emerged the strongest souls. The most massive characters are seared with scars.
– Khalil Gibran

ふと当時のことをまた思い出した。
窓専門のリフォーム業を始めた当初に雇用したTを元嫁に紹介したときの話し。
元嫁は僕に衝撃的なことを言いました。
「T君と寝た方がいいのかな?」はっきりそう言いました。
僕はそのとき何を言われているのか理解できず、数瞬の間を置いて意味を理解してからも言葉が出ませんでした。
ふざけて言ったにしては度を越えているのと、本気で言っていたなら正気を疑うような言葉でした。
ただ、僕には元嫁がふざけて言ったようにはとても思えませんでした。
なぜそのようなことを言うのか心が締め付けられるのを耐えながら問いただしてみると「これから頑張ってくれるT君の気持ちに報いるため」というようなことを言ってました。
僕は元嫁がどのような人生を歩んできたのか、僕自身が理解できない発想のもと行動をしている別の生き物のように感じました。

こんな出来事があったせいか、再度結婚しようという気持ちが沸かなくなりました。
良い人と一緒になりたい、という気持ちはあります。
しかし、相手がまた元嫁みたいだったらどうしようという気持ちと、相手から見て僕が愛想をつかされてしまう人間だったらどうしようという「恐れ」があります。
古傷がえぐられるような出来事は味わいたくはありません。
夫婦とは、共に歩んでいくうちに夫婦となる、というような事を聞いたことがあります。
それが僕が思う通りの言葉ならどんなに良いことだろうと思います。
結婚も含め、僕は自分を幸せにする人生を歩まなければならないと思いつつも、「〇〇でなければならない」なんて固く考える必要もないかなぁと、もう少しゆるく生きていくのが自分の性に合っているのかもしれないと思っています。

そんな話しを、テレビや新聞を見ない時事ネタが全く分からない僕としてはリフォームの営業での雑談にちょうどいいと思って使いはじめたら、女性がものすごく話に乗ってくることに気付いた。
この手の他人の話しに女性は目の輝き方が変わります。
こういう重い話しを雑談にするコツは、僕自身が態度にも言葉にも感情を込めず、ただ事実を淡々と話すということです。
感情的になるのはお客さんだけにしておかないと僕は何をしにお客さんの前にいるのか分からなくなります。
営業の雑談としてだけでなく、僕自身の気持ちや考え方の整理にも役立ったように思います。
僕が営業したお客さんがこのページを見る確率はかなり低いかもしれませんが、あの時は色々聞いていただいてありがとうございました。

治療院事業をはじめる

2011年3月。

窓専門のリフォーム業のフランチャイズのおおもとに対して大きな不信感を抱くようになる。
あまりの不条理理不尽、合理性のかけらもない提案や押し付けに「営業で日々駆けずり回っている人間の足を引っ張るような後方支援なんか要るか!」そんな感じで何度も啖呵を切った。

とは言っても、生活の糧を得ていかなければならない。

我慢ならないので新たなビジネスを模索。

治療院

訪問専門の治療院を立ち上げる。

ちんぷんかんぷんで始めた事業でしたが、5か月ほどで利用者で一杯になりました。最初の3か月はほとんどお客さんいませんでしたが。。。「この事業は辞めた方がいいんじゃないか?」何度そう思ったことか。

地区社協

ボランティアやります。
出来もしないボランティアをチラシに書いて手当たり次第にまいたりもしました。
そしてある日の朝、「マッサージ講座を開いてほしいんだけど」と地区社協のお偉いさんから電話が掛かってきました。
僕の頭の中では「そんなこと出来る訳ないじゃん」という言葉がよぎり、一瞬固まりました。
しかし、それをチラシに書いた手前、次の瞬間「お任せください」と言っていました。
あんまマッサージ指圧と言う言葉は聞いたことがあるけど、「あんま」と「マッサージ」と「指圧」というのはそれぞれ意味が違うということすらこの時全く知らない状態でしたが、僕が知らなかったことを講座でやる内容にしてしまえばいいと思い、半分開き直ってやりました。
人前でしゃべること自体苦手で心臓バクバクでした。
この講座でお客さんが獲得できたわけではないんですが、地域の方たちに僕の顔を知ってもらったことで、その後お客さんが爆発的に増える起点となった出来事でした。

訪問マッサージ掲載書籍

雑誌で取り上げてもらったり、書籍に記事を提供したり、、、

そういえば、どこから聞き付けたのか知りませんが、僕の治療院のノウハウが知りたいと言って全国から治療家や経営者がちょいちょい来るようになっていました。

その中の一人、治療家の方(視野狭窄の視覚障害者、50歳手前位の人)Yさんという方とお話ししたときのこと。
Yさんは「いつかは独立したい。でも。。。」そんな風に言っておりました。
ひとしきりお話しを聞いたあと、、、
アドバイスのつもりで「そんなに独立したいと考えているなら、今すぐ独立に向けて動いたらいいんじゃないですか?」とさりげなく言ったら突然声を荒げてブチ切れられたことがありました。
「そんなに簡単に出来るんだったら苦労しない!」みたいな感じでした。

やりたければやればいいし、やりたくなければやらなければいい。
そこに苦労が付きまとうのは当たり前ではないでしょうか。
しかしやりたいことなら、もしくはやらなければならないことなら、苦労することになんの躊躇があるんでしょうか。
そもそもそれは苦労なんでしょうか。
腹をくくれるのかどうなのか。
そして将来、あのときこうしておけば良かったなんて言わないように目の前の一つ一つを選択していくしかないんじゃないでしょうか。
自分自身の覚悟のなさ保身から来るほにゃららな感情を目の前にいる僕にぶつけたところで何も変わらないよと思いました。

自分が被害者であるという意識が抜けないんでしょうね。
そして、今まで自分が下してきた判断が間違いであったと認めることが出来ない守りに必死なんでしょうね。
そうした人と僕との違いは、「守ることに必死」なのか「手に入れることに必死」になるかの違いでしかないと思うんですけどね。
自分の人生なんだから自分が主役として先頭切って矢面に立たない限り、手に入るものも手に入らないと思うんですけどね。
それは障害者だからとか健常者だからとか何の関係もないと思います。

結局Yさんはブチ切れた後は号泣してしまい、僕はさらに困惑しました。
それでも変わってくれるきっかけになってればいいんですが、風のうわさでは治療院を転々としており、経営者ともお客様ともケンカしたりと悪評ばかり聞きます。
本当に残念ですそういう人は。

治療院が軌道に乗ったと思ったのもつかの間、、、売上金の横領、謀反、ノウハウ盗用、脅迫、、、そんな経験をしました。

運転手を募集したのに、実は地図が読めない人でしたと雇用した後に気付いたこともありました。
うちまでどの道順出来たんですか?と聞いたら分かりませんと言われ唖然としました。
お金の計算(お釣りの計算)が出来ない人を雇用してしまったこともありました。
信用していた治療家に裏切られ、僕が苦労して作った資料やノウハウを勝手に持ち出し独立。
人を雇用することの大変さをあらためて感じた。

しかし、このときに構築したノウハウが訪問専門の治療院を経営する治療家から高く評価していただき、治療院のコンサルティングをするようになる。

紹介心理学

その経験を活かし、紹介者はなぜお客さんを紹介するのか?という心理に焦点を当てた、紹介を起こすためのノウハウを書籍にもしました。
手作りの本ですから本屋さんには売ってませんよ。

窓ガラス専門のリフォーム業をたたむ

2012年1月。

訪問専門治療院がすでに軌道に乗ったこともあり、フランチャイズを脱退。

頭痛の種が減って、スゴクすっきりした。

K本部長ともこれで会わなくて済む。

治療院の立ち上げを手伝う

窓専門のリフォーム業のフランチャイズで僕と同じ販促センターを岐阜でやっていた小島さんから「飛騨高山で訪問治療院を立ち上げるから手伝いに来てくれるか?」と打診が来る。

静岡にも会いに来てくれた。
もてなそうと思ってエスパルスドリームプラザで海鮮丼でも食べようと入ったお店でちょうどヒルナンデスという番組の撮影をするということになり、僕と小島さんは多分テレビに映っていたと思う、隅っこに意図せずして。

僕がリフォームの仕事をはじめてから1年後に小島さんはフランチャイズに加盟した。

小島さんはもともと保険会社の調査員(アジャスターっていうらしいです)だったらしい。
他にも色々な仕事の営業職に就くたびにその会社で売上ナンバーワンを取ってきた人。
それはあとで知ったことではあるんですけど、なんか普通じゃないなと感じ取った僕は、窓の知識を教えてくれと小島さんから電話が掛かってくるたびに色々な話しをさせてもらった。
小島さんに僕から営業を教えてくれといったことはないし、営業に立ち会ったこともないんだけど、自分の営業スタイルを築くうえで「小島さんならどうするんだろう、どう考えるんだろう」という考え方をしてきた。
小島さんは僕に何かを教えたという感覚はないらしいんだけど(本人に聞いてみた)、僕は小島さんに恩を感じている。
ときどき小島さんが住んでいる岐阜県の郡上に遊びに行く。
そんな間柄。

そういう人から来たオファーだったので、「いいよ」と二つ返事。

ちょうど自分の治療院が従業員に謀反を起こされ滅茶苦茶になった後始末も終わったころだったので、早速岐阜県へ旅立った。

飛騨高山では様々な人からこの土地で訪問治療院を立ち上げるのは辞めた方がいいと言われましたが、それまでに培ってきた経験を活かして、この地では3か月で軌道に乗せた。
小島さんに対して少しは恩に報いたかなと誇らしかった。

ただ、一つの会社、一つの事業に船頭は二人も要らない。
続けていくうちに僕が考えている将来像と小島さんが考えている将来像に食い違いが出てきて、結局、僕は訪問治療院の保険請求業務を手伝う形に落ち着き、今も続いている。

あたらしい事業で大失敗する

2015年4月ごろ、いろいろなビジネスの話しを目にする中でふと一つ目に付いたものがあった。

それが何なのかはこれからお話しする中では割とどうでもよくて、一緒に株式会社を立ち上げることになった人間とのかかわりの中で思い至ったことの方が重要だった。

その人間の名はIという。

会社は岐阜県にある株式会社Wという。(たぶんまだあるんだと思います。)

「若い時には色々やんちゃをしたけど、故郷に錦を飾りたい」そんなことを言っていた。

理性は無意識に生まれず、拒めば得られない
– アイン・ランド(20世紀のロシア系アメリカ人小説家、思想家、劇作家、映画脚本家)
Reason is not automatic. Those who deny it cannot be conquered by it.
– Ayn Rand

(僕はこのときにIと一緒に仕事をするということ以上に、その決断に至るプロセスに大きな間違いを犯していたことに後で気付く。)

しかし、、、

バレなければ罪に問われない
物が売れれば人をだましても構わない。
Iのそんな考え方が、行動と言動から見え隠れしていった。

それは過去の話しだけではなく、現在進行形で行われていた。

僕は「人を変えようとするのはおこがましいことである」とこの出来事ほど思ったことはない。

僕の仕事に対する理念は、どんな仕事であれ「お客様の問題を解決すること」と定義していたので、当然その理念に矛盾が発生し衝突する。

また、営業だからとかこつけての女漁り、子供が4人もいるのに不倫をしている、真昼間から仕事にかこつけて飲み食いして歩いている人間がいることに、周りの人間のモチベーションがいかに削がれるかということを身を以て知った。

その悪影響を知らぬは本人のみ。

また不倫相手の女性のお腹を蹴り胎児を堕胎させたことがあること、その他「若いころのやんちゃ」と称した数々の犯罪行為を、自慢げに面白おかしく本人が語っていた記憶がある。

暴力的背景を以って理を通すだけではなく、ときにはそのものを行使することも厭わない。

力では敵わない目上の人間、力で押さえつけ言うことを聞かせられる人間、秘密を共有できる対等な人間、どうでもよい人間、と付き合う人間を4つに大別していた。

仕事の出来る、自分に協力をしてくれる使える人間を「合成材料」と称していた。

仕事においても、Iは人を紹介しさえすれば自分の役割は完結すると思っているようだった。

僕から言わせれば、、、「冗談じゃない!」

僕は自らを形作るのは
自らの思考・言動・行動とそれに伴う結果
周りのいる人間との関係に拠る
と思っている。

どのような言葉で取り繕うとも自分の人生にふさわしくないと違和感を感じた人間とは関わらない方がいい。

そう思ったら縁を切る勇気も必要だと思う。

辞める少し前に、僕への未払いの給料支払いについての減額をIは申し出てきた。

I自らは満額の給料を受け取り、陰でいくつかの副収入を得ているようで、さらには散々経費を使って飲み歩いていたにもかかわらず。。。

僕は「ムリです」と突っぱねた。

なぜなら僕は会社に在籍していた約一年半もの間、給料を一円たりとも受け取らず、無休でときには寝ずに働き、経費も極限まで節約した上で半分はポケットマネーで清算し、Iの使った経費も半分僕が負担して、僕にしかできない訪問マッサージ事業の収益すら全て会社に入れていました。(このことは当時担当税理士のY先生だけが事情をよく知っていました)

もうこれ以上は我慢の限界でした。

それに対してIは「言いたい放題言いやがって!」

言葉にすればほんの些細なことですが、この場所でここまで自分が積み重ねてきたことが「最初から意味のないことだったんだな」と悟り、自分の中で区切りが付いた。(人は変わる、、、そんな期待をして仕事をしていた僕の甘さがこんな結果を招いたと反省しています)

人は苦痛そのものではなく苦痛の無意味さに憤りを感じる
– フリードリヒ・ニーチェ(19世紀ドイツのドイツの哲学者、古典文献学者)
What really raises one’s indignation against suffering is not suffering intrinsically, but the senselessness of suffering.
– Friedrich Wilhelm Nietzsche

Iは今回のことで僕が裏切ったと感じたことでしょう。(その証拠にIの知り合いに連絡を取った際、僕が一方的に悪いという形で外堀が埋められて取り付く島がありませんでした。)

じゃぁ僕はどう感じていたか。
それは「いつか気付いてくれるだろう」という自らがコントロール出来ない不確定なものに自分を掛けてしまったことの愚かさを認め、Iとの関係を清算したということです。

辞める時のケジメとして、会社にあった負債の半分を未払い給料の一部で清算。

2016年9月ごろ、その会社を辞め、その会社関係の人間関係もすっぱり縁を切らさせてもらった。

会社内の引継ぎはしっかりと行い、事業運営に支障がないように取り計らいましたが、Iの希望で僕が作ったアプリの代金は踏み倒されました。(事前に支払いの約束をしていたにもかかわらず)

そのクセに、退社後に僕のサインと判子が必要な書類が必要となった際には厚かましく要求し、どんな理由かははっきりしませんが僕の籍を半年間もの間抜かず放置したり(会社法に違反します)、貧すれば鈍するとはまさにこのことだなと思いました。

株式会社Wに在籍中、Iと交友関係のあるいろいろな会社の社長さんたちとお会いしてきましたが、どんなに社会的に経済的に成功していても人間的に尊敬できない人が多かったので、縁が切れたことに清々しました。(お金がたくさんあるとか、従業員がたくさんいるとか、社長だから会長だからとか、誰それと繋がっているとか、議員を陰で動かせるとか、そんなことは1:1人間として付き合う上で何の関係もないことだと改めて思いました。)

過去が我々を定義する。理由をつけ悪い過去から逃げようとしても、それを改めることでしか逃げられない。
– ウェンデル・ベリー(20世紀のアメリカ合衆国小説家、詩人、環境活動家、文化批評家、農家)
The past is our definition. We may strive with good reason to escape it, or to escape what is bad in it. But we will escape it only by adding something better to it.
– Wendell Berry

薄々気付いてはいましたが、僕は人を見る目が無いに等しいなと思いました。
だけど、アカンと思ったときにいさぎよく身を引く勇気だけは少しあるとは思いました。

洗車の事業をはじめる

僕の知り合いの経営者で、医療・介護と多角的に経営している小針社長から「新事業を始めたいので手伝ってほしいんだけど」と言われ、「いいですよ」と返事をした。
で、何の事業を始めるんですかと聞いたらそれが何とは決めていないとのこと。
ヤギを飼って草を食べさせて環境保全する仕事とか、障害者福祉の施設を開設するとか、関係各所に直接行って話しを聞いたり見て回ったりまでしたんだけど、結局この話は流れることに。

事業を何にするかということの中の一つに、クルマの洗車というのがあったのは事実。

デミオ

たまたま、ガラコより良い窓ガラス撥水剤って何かないのかな?と検索したことからご縁があった出張洗車ビジネスを立ち上げる。

この商品すげーな、面白そうだなと直感したのが立ち上げたきっかけ。

実は小針先生の愛車マツダデミオは僕が定期洗車して喜んでもらっています。

突然の取引停止。そして新商品の発売。

2019年4月4日の出来事。
その商品の製造元から取引停止を一方的に言い渡されました。

この件についての見解は記事にすべてまとめたのでここに詳細は書きません。

一文で言い表すと
「製造元が容量を誤魔化していたので、それを自衛策で正していたら取引停止にさせられた」
ということです。

売る商品がなくなってしまったので途方にくれました。

洗車事業を辞めるしかない、、、本気でそう思っていました。

だけど「他の業者は信用できない」「齊藤美装さんから買いたい」そういう電話やメールやラインがめちゃくちゃいっぱい来て、、、

「辞める訳にはいかないじゃん!」

と思ったのはいいんですけど、代わりになる商品なんて皆目見当つかず。

たくさんのお客様から「こういう商品良いんじゃない?」と提案をしてくれるので一個一個試していました。

だけどイマイチピンとこなかった。
ゴメンナサイ。
だけどありがとう。

そんな試行錯誤をしていく中で、とあるケミカル会社の社長さんと偶然接点を持つことが出来ました。

取扱商品がなくなってしまったこと、これまでどのように商品を販売してきたか、そしてこれからどのように商品を販売していこうとしているか、これを伝えました。

ただ売れれば後のことは知らない的な商売が多い中、僕の商売に対する姿勢を気に入ったいただけたようでした。

僕はピッチレスコートには弱点があるとずっと考えていたんですが、その弱点を克服した商品を齊藤〇美装のオリジナルとして出してよいとのこと。

これ以上望めない展開でした。
諦めなくて良かった。

そうして生まれたのがマイティ3です。

何を買うかも大事だけど、誰から買うかというのも重視している人が非常に多いんだなと感じました。

色々と滑った転んだを繰り返していますが、とりあえず今はストレスなく楽しく自信を持って生きていけているので、これで良いと思っています。

ご覧いただきありがとうございました。サポートしてくれた方のメッセージ読ませてもらっています。洗車のプロである僕が「何を見ていて」「それをどう判断し」「行動に移すのか」、YOUTUBE動画では解説し切れない頭の中のことをアウトプットすることで皆さんの参考になればウレシイです。