グレる

わたしは、ぐれたことがない。
グレるとはどういった行動からその言葉の範囲に入るのだろうか。
いわゆる反抗期もグレに入るのだろうか。

12月は友人の誕生日が続く。小中高の友達の誕生日を覚えていても、もう祝う機会は訪れないのかもしれない、そんな人はちらほらいる。
あの時は、ああだったのに。今は、
なんてことがたくさんある。

昔仲が良かったあの子はどんな子だっただろう。
会える人は続けなければみるみる減っていく。かつて仲が良かった存在とはなんだろうか。

互いに、自分が更新され続けている。

いつのひかそのウマが、パズルが合わなくなるのだろうか。
それとも単純な環境変化だろうか。近い場所に居なければ人との縁というものは疎遠になっていくものだろうか。

やはりそういった例が多いことがそうであるということを物語っている気がする。ならば、環境が変わっても会いたいと思う人には何かしらの少しばかりかの労力やアクションが必要となるのだろう。

アクションをとらないという行為は、「友達でいる」ということを放棄するグレた行為になるのだろうか。
むしろ縁が続く方が奇跡のようで、めずらしいのだ。

食欲の上下のように、人間欲も上下してしまうものなのだ。
私はそう思える。たとえいつか「これを一生食べ続けたい」と思ったものでさえ、「食べたい」という思いが音沙汰もなく消えることがある。
過去の私が大好きだった食べ物が、突如として興味をなくすことがあるのだ。
同様に、大好きであったあの人でさえ、そうでなくなることはごく自然なことなのだと思う。
毎日そばばかり、カレーばかり好きで食べている人が居たら
あなたは「物好きだ」と思わないだろうか。
そう、今自分が仲良くし続けている人がいることもいえば「物好きな変態」の域なのだと思う。

食べることが好きな人間もいれば、苦手な人間もいる
人間と関わるのが好きな人間もいれば、苦手な人間もいる。
食欲と同じように、人間欲も人それぞれだ。

胃の消化量がちがうように、人と関われる容量がみな同じにはなれないわけである。
みなちょうどいい頃合いがある。他人からみれば、少ないと思える量でも本人はそれが一番おいしく食べれる量だったりする。それ以上食べると苦しくなり胃もたれし、最悪吐いてしまうことがおきる。
人間と関わるのに心地よい量もそのようにあるのだと思う。

そしてその人間力は食欲のように
時期によって消化できる量が増えたり減ったり、
その減っている時期が「反抗期」や「グレ」として出てしまうのかもしれない。
おいしいものを食べれば食べることが好きになるように
いい人と付き合えれば人と付き合うのが好きになったり、
苦手な食べ物ができれば避けるように
苦手な人には拒否反応が起こってしまい
食べ物が怖くなってしまえば食べれなくなるように
人が怖くなってしまえば人と関われなくなる。

ただ、運動をすれば食べる量が増えたあの頃を主出すと
人間欲の増幅も食欲が増えた運動のような「なにか」があるのだと思えた。

動いているうちに私の人間欲は増えるのかもしれない。

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