映画『パンズラビリンス』感想
「ブレイド2」「ヘルボーイ」のギレルモ・デル・トロ監督が「デビルズ・バックボーン」に続いて再びスペイン内戦を背景に描く哀切のダーク・ファンタジー。再婚した母に連れられ、山中でレジスタンス掃討の指揮をとる冷酷な義父のもとへとやって来た空想好きの少女は、やがて残酷な現実世界から逃避し森の中の不思議な迷宮へと迷い込んでいくが…。イマジネーションあふれるヴィジュアルと深いテーマ性が高く評価され、アカデミー賞3部門受賞をはじめ、数々の映画賞を席巻した話題作。(Tsutaya|パンズラビリンス引用)
2006年に公開されたギレルモデルトロというなんとも名前が呼びにくい監督のダークファンタジー作品である。『シェイプオブウォーター』や『スケアリーストーリーズ』なども手がけている。
この映画を一言で表すならば「まさにダークファンタジー」。ダークファンタジーとは何かと尋ねられればこの『パンズラビリンス』を差し出せば理解しやすいのではないだろうか。それほどダークファンタジーとして完成度の高い映画である。ダークファンタジーにおいては「頑張れば報われる」なんて言葉は通用しない。死も苦しみも物語を進める要素として平然と使われていく。あらすじにもある通り内戦を描く物語のため生死や裏切り、拷問などの痛々しいシーンが散りばめられている。
主人公は少女オフェリア
そんなオフェリアをファンタジーな世界に誘い込むヤギのような獣がパン
冷酷なオフェリアの義父、大尉。パンはオフェリアにしか見えないキャラクターでありながら時折この大尉にも見えている描写がある。果たしてパンとはなんなのか、この物語から出た感想は主に
「正義」と「関係性におけるらしさ」「強さとは」
であった。以下雑記の感想を載せていく。
パンとは
まず第一に、パンは概念の具現化されたメタファーなんじゃないだろうか。
だから存在するけどオフェリア以外には見えない。
その概念が何かってのはまだよくわからないが、例えば心や正義、不安が目に見える形だったら…。
ちなみにパンはパニックの語源となるギリシャ神話の半人半獣の牧神からきており、造形にバフォメットという悪魔のエッセンスも加えられている。
誘惑の象徴、性的能力の強さ、男性性の強さの象徴、分析して統合せよという中世錬金、人間の知のあり方、世界の変革の象徴。
そこから、誘惑と、人間の正義と強さのあり方のお話なのかもしれない、と思えた。
正義と強さと「らしさ」
オフェリアがパンのいう3つの試練というものに従順に従っていればパンは横暴にはならなかった。パンのいう正しさに乗っかればパンは’僕’という態度のままだったかもしれない。
パンはオフェリアのことを王女だといい自分のことを僕だと言う。しかし王女でありながら、国の上に立つ強さの象徴でありながら、結局それは僕のいうことに従順に従うことによって生まれる地位でしかない。
もしオフェリアが僕のパンの命令に従順に従っているとしたら。強さを果たして王女は有しているのか?正義を有しているのか?王女という立場でありながらそれは動かされた駒の一部でしかない。名ばかりのもののように思えた。
オフェリアはパンのいうことに逆らいを見せることで、受け売りの正義や強さではなく錬金して自分で人間の強さや正義を作り出した。
一方、大尉は大尉でありながら、結局やってることは父の受け売りだった。大尉はどこかコンプレックスがあったのではないか?オフェリアの幻想にすぐ近づき強く怒るのも、鏡に合わせて自分を切ろうとする仕草をするのも、息子を心配する父を有無を言わさず殺すのも。父がいっていた正義や強さ以外のものに気づきたくなかったのかもしれない。言われたままの伝統的な正義を遂行する駒になり続けた。そうやって最期まで父の正義を貫いたけど、メルセデスの「貴方の名前すら教えない」という言葉は、もしかしたら大尉にとっては父と息子の錬金されない正義の鎖を終わらせる唯一の新しい正義の錬金だったのかもしれない…。
「暴君の統治はその死によって終わるが、殉教者の統治はその死によって始まる」って言葉が作中に出てくる。これがとても良かった。
オフェリアはパンの指示に
大尉は父のやってきたことと同じことを行い
オフェリアはやがてパンの指示に反抗することが増える。
大尉と握手→反対の手を差し出す
汚してはいけない服→汚す
パンに試練を急かされる→母の容態が悪いからしたくない
遅れてはいけない食事→いない
食べてはいけない食事→食べる
鍵の穴真ん中と指示するものに対し→左を開ける
弟の血を渡せ→渡さない
言われたことへの逆いの多さが数多く描かれている。食べ物を食べるなと言われてぶどうを食べたのも反抗として描きたかったのだろう。
医者の「指示に従うだけの人間は心のない人間だ」という台詞はまさにオフェリアと大尉の対比を位置付ける。こう考えると本当に強いものは何かって思わされる。
また加えて大尉の父からの時計を見つめる多さ、初めのビンのシーン。鏡のシーン。父と息子という関係が度々大尉の前に現れる。
また数多くの関係性が作品にはドラマチックに描かれている気がした。
[姉と弟]
オフェリアと弟
子守唄歌ってたお姉さんとその弟
[母と娘]
子守り歌歌ってたお姉さんとオフェリア
オフェリアとオフェリアの母
[父と息子]
大尉と大尉の父
大尉と息子
うさぎ取ってた父と息子
関係性における「らしさ」ってなんだろうって思わされた。
この関係性に私はいつも「名詞的」か「形容詞的」かの区分けを考えている。血縁関係であれば名詞的、形式的なつながりである。形容詞的というのは決まった答えはないが「母と娘」「父と息子」という関係とはこのような繋がりであることなのではないかと思わされる関係性のことである。主人公オフェリアのように自分の意思を忘れず持つものにはどこかこの形容詞的な関係性をつくりだせる強さがみてとれた。
以前に千葉さんのシステムにおける悪の排除に時間性がいるみたいなのがあった。思考の余地を設けていない、敵は全て排除。特に冒頭の大尉の台詞「神が見てようが全てみんな殺せる」みたいなこと。まさに大尉はシステムに乗っかった排他的行為の攻撃性を持った者なんだなと思わされた。それは大尉にとっては正義だったのかもしれないが、最後に息子に時間を伝えてくれという言葉に「名前さえ教えてあげない」と言われるのは、自分の考えなしの正義は結局は人はついてこないということが物語られている気がした。最後の大尉の死は大尉1人に対し敵軍は大勢固まっていたのを見るとすごく虚しさを感じた。敵軍は「たとえ負け戦でも戦う」という正義を持ち合わせていた。大尉の側の軍隊達はただ無慈悲に敵を排除するのみで繋がりなどなかったのではないだろうか。考えなしの正義では考えありの正義に負けてしまうのかもしれない。