イスラエル
夕食の時間は過ぎて、夜の入り口。
レストランは、これからはじまる夜を存分に楽しもうという人々で賑わっている。
穏やかな笑い声。グラスとグラスが、転がる鈴のように心地よい音を立てて触れ合う。
ウェイターは口元に楽しげな笑みを浮かべて、テーブルの間をゆっくりとすり抜けていく。片手に銀のトレイを淡く光らせながら。
端のほう、目立たないテーブルで、ひとりの男性が軽い食事をとっている。
グラス一つぶんのシャンパン、一皿の料理。
にぎやかな周りに比べ、男性の周りはひそやかな空気がそっと流れている。 まるでエア・ポケットのように。
ウェイターは銀のトレイを気持ちよさそうに揺らしながら、彼の傍を通り過ぎる。
身なりの良い初老の男性が、グラスの底、残りわずかの液体を眺める彼に声をかける。
軽く挨拶のような言葉を交わし、初老の男性は、店の奥の薄い暗闇へ目を遣る。
そこには、使い込まれたピアノが一台置いてあった。
彼はグラスの中身をそのままに、何も言わずに立ちあがって、ピアノのほうへ歩いていく。
初老の男性はただ微笑んで、彼の背中を見送る。旧い知り合いなのだ。
彼は椅子に腰をおろし、ピアノのふたを開ける。
10本の指が、薄い黄色の鍵の上に乗った。
いつの間にか、軽妙なフレーズが薄暗がりからこぼれだす。
音楽に気がついた何人かの人々が、ふと店の奥に顔を向ける。
ウェイターによって灯された硝子照明が、男性とピアノをわずかに照らしている。
演奏が始まった瞬間の張り詰めた空気、ものものしさは、そこにはない。
そのピアノは、自分で自分のために弾いているような節さえある。
むしろ、音楽が誰かに聴かれることを、心のどこかでは厭うてすらいるかのような。
ただ彼は、何かが「当たり前だ」とでも言うように、長い指でメロディーを紡ぎ続ける。
始まりかけの夜への静かな興奮の隙間を、ピアノの音がすり抜けていく。