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#1 発酵する思考

このアカウントを作ったのはどうやら6年前らしい。
そして、アカウントを作ってからもしばらく投稿することに逡巡していたらしい。久々にnoteのクリエイターページを開いたときに、その形跡が残っていて笑ってしまった。

あまりに腹が決まっていない下書き

今読み返しても、結局何を書きたかったのかはわからない。当時の自分も、なんで書きたいのかはわかってなかった(ように見える)。
でも、「何か」を書きたかった。
当時の自分がモジモジしながらも、記事を書こうとした動機は何だったのか。まさか、5年後に答え合わせをすることになるとは思わなんだ。
そのきっかけとなったのは、日本仕事百貨さんの「文章で生きるゼミ」。

ずっと興味があったのだけれども、毎度開講記事に気づくのが遅くて申込を逃していた。今回はちゃんと間に合った。能登との滞在スケジュールが被りそうでもあるので、オンライン聴講生として参加している。

先日、初回講義があった。講師は中田一会さん。
ナカムラケンタさんが聞き手となって、中田さんがことばを扱う仕事をする中で、大切にしていることや意識していることをお話いただく、というものだったのだけれど、首がもげるかと思った。
「なるほど!!」「わー、確かに〜!!」の嵐。自宅でよかった。学びと気づきのシャワーを画面越しにたくさん浴びた2時間半だった。

その知識浴の最中で、ハッとしたお話があった。それは「書き手自身が何を感じたのか、というのと向き合った文章の方が伝わるし、届く」というのと、「感じたものを身体感覚に落とし込んでトレースをしていく」というもの。アウトプットするということばかりに気が取られていたけれど、その前にまずは、自分の内側にあるものを感じる。灯台下暗しとはこのことか。

そして、この講義の中で一貫して、書き手が世に放った文章を読む人のことをひたすらに考える、想像することをお話されていた。
講義を聞きながら、「そもそもどうしてわたしはこの文章で生きるゼミに興味を持ったのだろう?どうして何かを書きたい、という気持ちになっているのだろう?」ということを並行して考え、講義の感想を書いている時にパチン、と何かが弾けた。

文章は、それがたとえモノローグの見かけをもっていようとも、基本的に対話の構造をもっている。

野矢茂樹. 論理トレーニング101題. 産業図書, 2001, p.9-10

たぶん、誰かと話したかったんだろう。
もちろん、友人や家族、職場の人など話す人はいる。話し上手な人が多くて、彼らと会っていると時間が経つのがあっという間に感じるほど、たくさん喋ってたくさん笑う。
でも、そういう場面で話すようなこととは別の、自分の中でずっと寝かせているアイディアや思っていること、感じてることを話したかったんだと思う。当時の自分はその欲求に全く気づいていなかった。

気づいていなかったけど、少しずつその欲求が蓄められて、いろんな刺激を受けて、いろんな感情に浸って、温められていったらしい。
そこに先日の講義で知見という名の麹が降りかかり、ぶくぶくと泡立った。
きっとその時の音なのかもしれない。これはゼミが終わる頃にはいいお酒ができそうだ。ちょっと違うか。

それにしても、このゼミの熱量がすごい。現地で受けているみなさまからも、オンラインで受けている方のチャット欄からも、前のめり感が画面越しからビシビシ伝わってくる。
この心地よい熱量に乗っからないと勿体無い!
どんな自分になっていくのか、その発酵のプロセスを楽しみながら3ヶ月を過ごしていきたい。

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