刹那と諦観
覚悟とは、文字通り、「自覚して悟る」ことである。
~岡田喜秋(1994)『旅のあとさき』中央公論社より~
横浜野毛の偶然入った古本屋で、自分が生まれるよりも前に既に高齢の方が書いた、紀行文兼エッセイ集のようなものを見つけた。その文章が、私にはなぜかしっくりきて、共感するところが多くて、読んでいてほっとした。
なぜ私はこの本がしっくりくるのか。「刹那」と「諦観」というワードから語ってみたい。
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卒論のはなし
「刹那」と「諦観」を語るために、私の卒論の話を少し書いておきたい。
私は先月、卒論を書き上げた。自分の問題意識に向き合いながら、文献調査やインタビュー調査をするという文系らしい何の変哲もない卒論である。それでも、卒論を書いてよかったと心から思えるほど、私は卒論を通して自分に正直になれた。その具体的な内容はここでは割愛する。
自分が卒論を書いた時間だけでなく、ゼミの教授、6万字以上もある卒論を読んでくれた複数の友人との会話は、新たな視点で自分のことを考えるきっかけ・時間となった。「諦観のベースの上にある刹那」が今の私を表すキーワードなのではないかと思うようになったのは、その会話のおかげである。だから、私の卒論に付き合ってくれた心優しい方々に感謝をしながら、この文章を書いて自分で整理してみたい。
卒論を読んでくれた友人との会話
まずは、友人Aさんとの会話から思い返すことにする。
Aさんは私の卒論を読み、Aさん自身の卒論と比較して、6ページにも及ぶ文章を書いてくれた。興味深い内容で、その文章を見ながら会話をしたときのことである。
「お互いらしさが出てるよね。私のとは違って、○○(私の名前)の論文には、やっぱり諦めとか、諦めの力強さを感じる」
Aさんは、私の卒論からこんなことを感じ取ってくれた。私は、「諦め」が自分のキーワードの一つであることは、結構前から自覚があったし公言していた。諦観ゆえの「しぶとさ」を、Aさんは私の特徴として、そして、Aさん自身にはない、むしろ憧れの対象として、私に指摘してくれた。
私にとって諦観は、逃げであると同時に、「諦め」の感情があるからこそ、周囲や日々に対して過度な期待をせず、それが功を奏してきたこともあった。もちろん、そのせいで自分の可能性を狭めているなと思う機会は数えきれないほどあった。
この態度は、言葉を変えると、周囲や日々のイベントに対し、希望も絶望も抱いていないということである。きっとわかってもらえるだろうとか、きっと楽しいだろうとか、そういう外部への期待や信用を意識的にしないようにしている。だからこそ、少しでも楽しいと、自分にとって「楽しかった」という評価に変わるし、やっぱり違うと思っても「やっぱりそうか」と落ち込む幅が少ない。諦観は、逃げでありながら、自分なりの処世術としている部分である。その弊害も認識してはいるけれど。
Aさんとは、「孤独」についての議論もした。外部への信用をあまりしていないからこそ、信じられる今一瞬の太陽の光であったり、水の動きであったり、そういった「一瞬の煌めき」に対する希望を、私の卒論から感じ取ったという。また、「一瞬の煌めきを感じ取る作業の孤独さ」も指摘された。この作業は、ただ一人で行う孤独な作業であるからである。これは意外な指摘であった。
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次に話をしたのは哲学を研究しているBさんだった。Bさんも、私の卒論を読んで、自分の専門分野の知見から何ページも文章を書いてくれた。Bさんは、哲学用語の混じる難解な文章を私に解説しながら、様々なことを考えさせてくれた。
特に印象的だったのは、私の刹那的な側面を指摘したことである。私の卒業論文の中で、「未来のための今」ではない「今」という時間について触れた箇所があった。Bさんは、そこに注目しながら、「未来や結果に関心がないこと」が私の特徴で、論文と性格がマッチしていると指摘した。例えば、誰かと会話をしていても、その会話を通じて、「未来の自分」に役立てようとする雰囲気が感じられず、むしろ、目の前の人とその時間に意識が向いているように感じるのだそうだ。確かにそうかもしれない。
また、Bさんとは、「今」という時間の概念を空間的な概念に置き換えた「足もと」に関する議論もした。「足もと」というワードは、私の卒業論文の中でとりわけ重要な位置を占めていて、足もとに目を向けることの大切さを論文の大きな軸としていた。
Bさんは、自身のバックグラウンドを話しながら、「そうなりたくはなかったけれど、そうせざるを得なかった」というトーンで足もとに意識を向けて暮らしていることを教えてくれた。足もとに意識を向けて生活するとはつまり、将来こうなりたいだとか、属している集団の中で取り残されないために話題についていくこと(話題についていくとはつまり、その集団の中での居心地を確保するための、ちょっと先の未来に対する投資をすること)とか、「そういうこと」から距離を置くことである。なぜなら、「そういうこと」に困難があったから。私も共感するところがあった。
そんなセンシティブな話をしながら、私もまた、「刹那」や「足もと」は、諦観という文脈の上に成り立っていることだと認識した。
周囲や日々に希望も絶望も抱かないのと同じように、未来という時間に対しても希望も絶望もしていないのだと思う。Bさんとの会話で、刹那と諦観がつながった。
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教授との会話
先日、大学卒業前の口述試験があった。書き上げた卒業論文のこと、将来のことなどを教授とオンラインで話した。そのなかでかけられた一言がとても心に響いている。
自分が何をしたいか、常に問い続けてないとね。たぶん、意識しないと○○さん(私の名前)はしないでしょうから。
この言葉はまあまあショックでもあったが、これはつまり、諦観のベースにある私の刹那的側面を教授にも見抜かれた、ということかもしれないと思った。
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覚悟とは、文字通り、「自覚して悟る」ことである。
冒頭の一節に戻ろう。
なぜこの本の文章にほっとしたのか、それは「諦観」の雰囲気を、文章の節々から感じ取れたからである。だが、なぜ私がこの一節に着目したかは、自分に対する戒めとなると感じたからである。
覚悟するとは、単に決心することだけではない。将来を考えてみて、その結果がどうであれ、自分で責任を取らなくてはならない。それゆえに「悟る」ということにはあきらめも必要とされる。自分が努力しても、万一、むくいられないこともある。それを承知で挑む積極性がなくてはならない。
「悟る」と積極性。
これが私にとっての課題なのかなと感じた。教授の言うように、未来に対する想像をし続けること。それは、私が苦手な、希望である必要も絶望である必要もなくて、思い描いてみるだけでもいい。そして、悟るからこそ、積極的に挑んでみてもいいのかもしれない。
「足もと」や刹那を大切にするのはいいけれど、だからと言って未来や積極性すら犠牲にする必要はない。
自分に対する戒めとして、ここに記しておく。ここに登場してくださった、友人や教授への感謝を胸に。