英霊の言乃葉/お父さん

社頭掲示 令和5年7月度
「お父さん」を読んで

・干城  国家を防ぎ守る軍人や武士

・有為転変  
この世の現象は、因縁のからみ合いによって生じたものであるため、一瞬もとどまることなく移り変わっていくということ

・極まりない  この上もない。限りがない。


自分の問題と受容し、覚悟をした潔さの裏の、口に出せない葛藤を痛々しく思う。



・大東亜  極東および東南アジアを,第二次大戦中に日本側が称した語。


昭和十八年 三月二十二日  東條首相と河邊中将の懇談にて
『 このとき首相は「日本の対ビルマ政策は 対インド政策の先駆に過ぎず 重点目標はインドにあることを銘記されたい」と語った。 』

ビッグマウスだっただけなのか?
本気だったのか?

ビルマは日本の後押しにより、昭和十八年 八月一日に独立。


インパール作戦に突入してしまう。


日本の戦争指導におけるビルマ戦線  荒川憲一
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2002/forum_j2002_11.pdf

『 3  分析  -大本営が上奏した中止の理由-
1944 年 7 月 1 日、大本営はインパール作戦の中止の件に関して次のように上奏した 。 「このまま、インパール作戦を継続しますと、ビルマにおける堅実な戦略態勢を崩壊せ しめ、大東亜戦争全般の作戦に重大なる影響を及ぼすおそれがあります。インパール作 戦を中止してもビルマ全般の作戦に影響するところ極めて少ないと思われます。しかし、 印支連絡路の遮断作戦は、これを放棄する時、支那を基地とする我が本土空襲並びに本土と南方地域との交通遮断作戦が急速に進展し我が全般作戦の指導に影響するところ極 めて大であります。印支連絡路の遮断はビルマ作戦の究極の要件であります。」 』
*印支連絡路    仏印と支那間の連絡路

インパール作戦の敗北 ⇒ ビルマ防衛組織の崩壊をはやめた。

マリアナ諸島の失陥後 
⇒ 太平洋方面戦局の急転 
⇒ 連合軍の中国大陸上陸に備え、主戦力を中南部、中国沿岸への転用。
これに伴い、ビルマ戦線も手薄に。

ビルマ モールメン の 方面軍の指揮官も 『 参謀を派遣し、
昭和二十年八月二十四日(二十七日?)「ラングーン」に於いて、締結せられたる地方的協定に於いて 必要とする特定地区の日本軍撤退に関する細部命令及び、連合国軍指揮官の発する総ての命令の円滑なる実行及び適当なる実施を図るべし 』 との連絡を受けている。 


昭和二十年九月一日に病戦死されたということは、戦後武装解除をした後ということか。
ビルマ モールメンにて、連合軍の捕虜となり、捕虜として もしくは 入院中の病院での  戦病死だったのだろうか?

ビルマ モールメン

降伏までの間、停戦努力はされたはず。

しかしながら戦線を拡大した後、有利な段階で手仕舞いまでの計画がなかった?のが悔やまれる。



【 私自身に置き換えて 】

足るを知る。
勢いは永遠に続かない。
正義が正しいとは限らない。

無理をすれば、疲弊する。
得るものよりも失うことの方が大きい。

現実を見て、捨てる勇気、立て直すことも重要。



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