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生贄探し 暴走する脳

とんでもないタイトルの本だという印象がありますが、最近ハマっている中野信子さんの本です。
中野信子さんって、ジャンルは何になるんだろう、脳科学者なのかな。
この本は共著でヤマザキマリさん、テルマエ・ロマエの作者さんと対談形式ですすんでいきます。
今回は日本人の狭苦しい生き方についての本です。


なぜ、誰かが得すると自分は損した気になるの?」

Go Toトラベルも、社会全体の経済をよくするためが、「あの人だけ、いい思いをするなんて許せない!」とモヤっとした人は少なくありませんでした。そんな負の感情が連鎖しやすい傾向こそ、日本人の脳の特徴だったのです。

一方、「日本人は親切だ」「日本人は礼儀正しい」「日本人は真面目だ」「日本人は協調性がある」──こうした日本人への褒め言葉をよく耳にします。でも実は、日本人はよその国の人よりいじわる行動をすると判明。自分が損をしてでも相手に得させない行為をする日本人。

パンデミックでは、コロナ禍で奮闘する医療者までも生贄探しの対象になりました。むき出しになった正義中毒に誰もが「他人の目が怖くて」自粛。巣ごもりで毒親に悩むケースも目立ちました。自他ともに生きにくさを増すこの時代、脳科学者の中野信子さんと、時代も国も越えた体験を描く漫画家・随筆家のヤマザキマリさんが鋭く分析。パンデミックの経験を無駄にせず、心豊かに生きる方法が得られます。

Amazonより引用

わ協調性という名のアリ地獄

他人が得をするというのを許せないという精神が、どちらも得するというウィンウィンな考え方の邪魔をしているのです。また、興味深いのは私が損をしているのだから、お前も損をすべきだという考え方が生じることです、いわばウィンウィンよりもルーズルーズを志向する構造を持っているということになります。足を引っ張りあい、誰の得も許さない1人だけ抜けがけしようとする奴はよってたかって袋叩きにしてやるということにもなります

ちょっと話はズレるかもしれないですが、クラスでよく「勉強していない合戦」が繰り広げられます。
今日のテストに向けて、全然勉強してなかったっていう、やってないマウンティングですね。
これはある意味、他人を牽制しているなと思う時があります。私も勉強してないんだから、あなたも勉強しなくていいんだよみたいな。
そうやって全体の平均点を下げることによって、自分を保とうとしてる行動があります。

高校生って本当に同じような立場(年齢、住んでいるところ、学力)の人達の集いだから、他人が突出することが自分へのコンプレックスにも繋がるんじゃないかなと思います。
それなら自分の良いところを伸ばせばいいんじゃないかなって思うんですけど、それをするには、エネルギーがなかったり、自尊心が足りなかったりします。
ここまでくると、今までの教育をどのように受けてきたかになるんですよね……きちんと自分は自分、他人は他人と理解できるような教育を受けている人は自立しているように思います。


匿名性と凶暴性

基本的に日本のネット民は実名制のFacebookでもInstagramでもなく、匿名のTwitterを好むというのが興味深いですね。
だから排除対象にされたくないけど主張や承認欲求は旺盛だということですよね。Twitterの性質は結果世界各国で全く違ってくると思うんです。
先述したように家庭では家族がみんなテレビを見ながら批判論を交わし、小学生の頃から弁論や口頭試問に慣れさせられ、要は自分の考えや意見を言語化してきた前で喋るという教育がなされている土地では匿名で人格を変え普段言えないことを言えるツイッターは普及しないんですよ。

110ページより引用

各学校では授業アンケートというものがあります。私はこれがとても嫌いです。なぜなら、匿名性だからです。
「匿名だから言いたいことが言える」と考える方もいらっしゃいますが1ミリも共感できません。匿名でしか言えないようなことは言うべきではないからです。
それは意見ではなく、単なる誹謗中傷です。私も今まで沢山の誹謗中傷を受けてとてつもなくやる気を無くしてきました。

結局ネット弁慶を学校で産んでどうすんだよっていう気持ちです。前の勤務校はアンケートの内容を変えることができたりしたので(質問項目等をまとめて報告書にする仕組みでした)記名制にしていたんですが…
褒めてくれる文章ももちろんあるので、やる気は出るのですが、それは記名性でも書いてくれるんですよね。匿名性でしか書けないような内容のアンケートってなんであるんでしょうね。
団体に書くならいいけど、教員個人に対して書くっていうと、誹謗中傷をされた場合に、上の人たちはどのような対応をしてくれるんでしょうか。私も自分より年次の若い先生達を守りたいです。
教員を守るっていうことをきちんと考えられる日本社会になってほしいなと思います。

無菌状態の子どもたち

現在では社会の不条理でや歪んだ実態を知らずに済ませる教育が推奨されています。無茶な行動を取るような教員もいなければ、すさんだ家庭環境が顕在化したような、見るからに極悪な不良もいません。
健やかに勉強ができるように、そしていじめが発生しないようにという考慮によって、教育はメンタル無菌室のような状態になっている印象があります。
しかしこのメンタル無菌室で育てられた子どもたちは、大人になってから必ずどこかで遭遇する社会の荒波は不条理を越えていくことができるのでしょうか。

188ページより引用

社会に不条理なことがあってはいけないとは思うんですよね。それは不条理が是正されるべきです。
しかしながら、不条理が発生しない社会なんて存在しません。人と人が交流したら必ず不条理に直面します。
そういう時に何くそ!と生き残れる精神が、果たしてあるのかというと甚だ疑問が残ります。

こう考えると、私もクラス経営で「仲の悪くないクラス」を目標にしているのですが、生徒同士の揉め事等は発生した方がいいと思います。
影でグチグチ言うより全然マシです。言いたいことを言い合って喧嘩した方がいいと思います。
そして言われたことに対して、腹が立つ時もあれば時間が経てばそういう風に見るも考え方もあるのかと嚥下できるかもしれません。

ただし、感情むき出しに喧嘩するのは良くないと思います。理知的に考え、相手の意見を慮りつつも、自分の意見を通すということが大切なように思います。
それをするためには、相手の気持ちを考える想像力が必要だと思います。本書でも繰り返し出てきた言葉ですが、想像力に欠ける、現代社会だと思います。


なにかに対して理由を聞いても分からないと答える生徒はとても多く、もしかしたら言語化できてないだけかもしれないのですが、大抵の場合は何も考えていないんだなって思います。
自分がなぜそのような行動をしたのか、自分がどのように生きていきたいのか、常々想像力を求められる社会になっているように思います。
この想像力を鍛えるというのは、今後の私の教育の中でキーワードになっていくと思います。
本書のタイトルでもある、生贄探しっていうのは、自分というアイデンティティを確立することができず、他者を排斥することで自分の存在を認識できるものなのかもしれません。
なんだかいろんなものが想像力で片付けられるような気がしました。この現象についても同様ですね。
自己客体化するメタ認知や、自分自身の妬み嫉みを懐柔するマインドコーティングの力をどのように涵養できるかは大きな課題です。

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