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「現実と向き合いながらも理想を忘れない」ワザで 自分らしく現実を生き抜く

身近な人からこんな声を聞きました。

「私がやらないと誰もやらないから……私がやらなきゃ」
「このタスクやりたがる人なんていないよ(ため息)」

このような言葉を口にしながら、しかし全てを自分ひとりでこなしたい訳ではないとも言っていました。自分一人が頑張っている状況をつらく感じているのに、つい一人で抱え込んでしまう。
このような状況に陥る背景を一緒に考えていて、人に期待できなくなっているという感覚に気づきました。すると、しかし、この感覚に対してどんな改善を図ることができるのでしょうか。期待する/しない は当人の感覚ですから、「人に期待できない」と言う人に、それでも「人に期待しよう!」と推奨するのは自発的行為を強いるようで、理不尽だと思うのです。
また、「周りの人がコミットしたくなるために できることを自分がすればいいんじゃない」という助言も思い浮かぶのですが、これも違う気がする。合理的に導き出せる有用なネクストアクションを頭で理解できても、心が疲れているとやる気は湧かないのが人間ってものじゃないでしょうか。

相手の気持ちを無視するようなことは、悲しいからやりたくない。
人に期待する気持ちを深く考察するために、ちょいと先人の知見を参照してみましょう。

期待水準(現実) と 願望水準(理想)

人に期待する想いについて、社会学者の宮台真司は次のような見方で捉えます。
(余談ですが、元の論は恋愛について述べているものです。こと恋愛において、人への期待や望みの想いは強く表れるような気がします。)

人の想いには「願望水準」と「期待水準」がある。
現実に何が期待できるのかが「期待水準」で、それとは別に自分が心の奥底で何を望んでいるのかが「願望水準」だ。

人に望む想いを「期待」と「願望」の2つに区別して捉えるのが、宮台の考え方のポイントだと思います。この2つの望みの在り方は、「現実」と「理想」とも言い換えられそうです。
この見方で、人に望む想いは次のように変容すると宮台は考えます。

①最初は「期待水準」も「願望水準」も両方とも高かったのが、
②現実での期待が叶わない経験を積み重ねることで「期待水準」が現実に見合うものへと切り下げられる。「現実はこんなもんだ」と分かってくるわけです。
③しかし、さらに経験を重ねると「期待水準」に引きずられて「願望水準」もだんだん下がってきてしまう。「期待水準」と「願望水準」のギャップにたえるのがつらいからです。そうして、自分が本当に望んでいことを忘れていってしまう。

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現実に打ちのめされて、絶望

はじめに紹介したような 人に期待できなくなっている状態も、目の前の現実に打ちのめされて切り下げられた期待水準に引きずられて、願望水準までもが下がってしまったものなのかもしれません。「どうせ周りの人は何もしてくれない」って具合に望みが絶たれた まさに絶望状態。

望むことをやめるのは、理想と現実とのギャップにこれ以上傷つかないためにできることなのかもしれません。でも、絶ってしまった「願望」は、本当に絶ってしまってもいいものだったのでしょうか。それが自分にとって大事な望みだったら、それは大切な心の燃料です。期待と一緒に願望までもを捨て去る前に、一度自分の「願望」を確かめてみてもいいかもしれません。
もし、自分の願望を考える時間の末に「そこまでやりたくなかった」と気づいたとしても、今いる道よりも自分に合う別の選択肢に向かうきっかけが生まれるなら、いいことじゃないでしょうか。

私にできることとして、現実に打ちのめされた人の願望を確かめる時間を共に過ごしたいと思いました。

現実と向き合いながらも理想を忘れない

現実においては、他者と協力することは避けられず(多くの仕事や活動は一人では完結しません)、絶望の機会に溢れています。(笑) しかし、つられて自分の心の奥底の願望も絶ってしまうと、自分にとって大切な活力や自分らしさを同時に失いかねません。
すると、他者のいる現実を自分らしく生き抜くためには、下がってしまった期待水準(現実)と向き合いながらも、自らの願望水準(理想)を保つワザの修練が必要になるのではないでしょうか。「現実はそんなもんだ」と割り切りながらも、信じる理想を見失わずに自分の道をつくる生き方が。


現実に打ちのめされて期待できなくなった時は、つられて、心の奥底の願望も失われているかもしれません。そんな時こそ、現実はいったん横に置いておいて、まず自分の心の内の理想を見つめ直すのも一つの手のようです。


−  参考文献 −
宮台真司(2008)『14歳からの社会学』世界文化社

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