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12月刊行「家康の海」を書いたわけ

 植松三十里著『家康の海』が12月8日にPH P研究所から発売になります。来年の大河ドラマを意識しての刊行ですが、家康が駿府に隠居してからの外交策に特化させた作品です。
 なぜ、これを書くことになったかといえば、3年ほど前に、ノンフィクション系の歴史作家である鈴木かほるさんから「三浦按針を描きませんか」と、声をかけていただいたのが発端でした。
 鈴木さんには『徳川家康のスペイン外交』という著作があり、その中で、家康が晩年、浦賀を国際貿易港にしてスペイン船を誘致しようと考え、そのサポート役を、三浦按針ことウィリアム・アダムスが務めたことが明らかにされています。でも徳川幕府には鎖国の印象が強く、家康が外交熱心だったことは、あまり認識されていません。鈴木さんは、その辺を小説にしないかと、水を向けてくれたのです。
 ただし三浦按針のことは、もういろいろな方が小説にしているので、今さら私が独自のものを書けるかなと、ちょっと自信がありませんでした。
 そうこうしているうちに、私は月刊誌の「カトリック生活」で「日本史のクリスチャンたち」という連載を始めることになりました。その第1回目におたあジュリアを、2回目に三浦按針を書きました。
 おたあジュリアは、もともと朝鮮貴族の姫で、秀吉の朝鮮出兵の際に、幼くして孤児となっていたところを、キリシタン大名の小西行長が哀れんで連れ帰り、キリシタンとして育てた少女でした。11歳のときに関ヶ原の合戦で、小西行長が負けて処刑され、その後、家康が引き取って、駿府城の奥で成長しました。
 娘ざかりになると、家康から「妾になれ」と強要され、それを拒んだために伊豆諸島に島送りにされたと言われています。でも家康は経産婦の熟女好み。若いおたあは、ちょっと違うんじゃじゃないかなという気がしていました。
 またまた、そうこうしているうちに、2023年の大河ドラマが徳川家康だと発表されました。そのとき私は決めました。三浦按針やおたあジュリアをからめ、浦賀のスペイン貿易から朝鮮外交までを含めて、家康の外交政策を描こうと。
 私は幕末の海軍や、昭和までの外交関係を、いちおうの得意分野にしており、その延長線上で書けそうな気がしたのです。家康は陸戦のイメージが強いので、あえて題名は「家康の海」としました。
 その間にも「カトリック生活」の連載は続いており、伊達政宗がヨーロッパに派遣した支倉使節団や、6000両もの膨大な贈収賄事件を起こしたキリシタン大名などを取り上げました。それらは家康と無関係であるはずはなく、特に6000両の贈収賄事件は、家康の側近がからんでいたこともあって、駿府で裁きが下されました。
 その辺りを取り込んでいるうちに、小説の方は最初の予想よりも、はるかにドラマチックに仕上がりました。自分自身、家康の外交政策の意味を、改めて実感できました。徳川家康は戦国時代を勝ち残ったから偉いのではなく、その後の長い平和な時代を築いたことが、何よりの業績です。そこに欠かせないのが外交でした。
 私は静岡の出身で、中学高校は駿府城址にあるカトリックの女子校でした。徳川家康の御手植えのミカンの木の脇を、6年間、歩いて通いました。あの辺りで、家康は外交政策を練り、あの辺りで、おたあジュリアが祈っていたかと思うと、感慨深いものがあります。
 鈴木かほるさんからの誘いをはじめ、「カトリック生活」での連載、今までに書いた外交関係の著作、私の静岡での経歴など、いろいろな要素が重なって、「家康の海」が生まれました。私にしか書けない徳川家康になったと自負しています。
 ちなみに、このページのトップの写真を撮るのに、本だけじゃ寂しいので、亭主どのに「なんか海関係のグッズない?」と聞いたところ、「ずいぶん前にインドで買ったんだ」と、4畳半の狭い書斎から出てきたのが、本の左に写っている六分儀の模型。昔の航海術に使われた器具です。
 なんで、こんなものが家にあるかといえば、亭主どのは海の水の研究をしてきた人なので。私が最初に幕末の海に関心を持ったのも、彼が研究船に乗り込む際に、毎度、お見送りに行っていたからであり、「家康の海」のそもそもの発端も、その辺から始まっているわけであります。
 下は「カトリック生活」の連載1回目。私が文章を、次女が挿絵を描くという母娘コラボの連載で、なんか家族総出感あり。

次女いわく「ミュシャ風の挿絵」


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