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山田伯爵邸おぼえがき前編【明治~昭和初期】

山田顕義(1844~1892)が建てた音羽の山田伯爵邸およびその土地について、判明している内容の整理をする。<令和6(2024)年時点>

まず手持ちの音羽山田邸(以下「旧山田邸」と記述する)データをば。

宅地は現在の講談社から裏の高台の地域にかけて
(略)
約二万坪を有す、岡邸樹林あり、水流亭樹を繞(めぐ)る。山幽に地静かにして、花鳥風月の楽みあり、
(略)
山田家は明治二十二年、この地(講談社社屋所在)に当時神田のニコライ堂と共に珍しい豪壮な洋館を建築し、同年十二月に落成移転した。
(略)
山田伯爵家は、顕義伯逝去の後、同家とは因縁浅からぬ井上馨が、家政一切の世話に当たっていたが、井上はみずから設計して山田未亡人のために、麻布笄町三十一番地に新宅を建築した。以来伯爵家は、この邸宅を居住として近世に及んでいる。そして由緒深い音羽の邸宅は、大正時代に至って大日本雄弁会・講談社社長野間清治の私有となったのである。
(略)
聖駕臨幸の山田邸跡に建てられたのが、現講談社社屋である。裏庭には護国神社と共に幽雅な池畔などが今になお残っている。

『山田顕義伝』(昭和38年出版)より

住所は小石川区(現文京区)音羽町3丁目19番地。『華族名鑑』など複数資料で一致しているのでまちがいない。
また旧山田邸の工事適要書によると洋館の建坪は約76坪。設計技師は渡邊讓とある。
渡邊は工部大学校でコンドルに学んだ経歴を持つ。上野に現存する岩崎家茅町邸(現岩崎邸庭園の洋館)はコンドルの手によるが同邸と旧山田邸の間取りはほとんど一致する。

旧山田邸の日本館部分については残念ながら情報が全くないのだが、写真では洋館の後ろにうっすら瓦屋根が見えており、やはり岩崎家茅町邸と同じく音羽邸にも日本館が併設されていたのだとわかる。

以上を踏まえていくつか疑問点がわく。

  1. 約2万坪の土地は具体的に現在のどこか

  2. 広い邸内のどこに邸宅が建っていたのか

  3. 山田家遺族が引っ越した後、邸内はどうなったのか

  4. 洋館が野間氏の手に渡るまで数十年あるがその間空き家だったのか

ここからは調査と推測となる。

①約2万坪の土地は具体的に現在のどこにあたるのか

"講談社から裏の高台の地域にかけて"という記述と、同時代の東京地図を参照し邸内だったと思われる範囲をピンク色で塗ってみた

『携帯番地入東京區分地圖』
特に濃い色で塗った箇所が旧山田邸住所の番地(『東亰市小石川區全圖』)

目星をつけた範囲が本当に約2万坪ほどあるのか?
少し時代がくだるが大正元年発行の『東京市及接続郡部地籍台帳』『東京市及接続郡部地籍地図』を見ながら地道に足し算した結果、上記範囲ではまだ数千坪足りなかった。
塗りつぶしに隣接している西青柳町や左側なんかはクサいが、地図の区画を見るに塗りつぶし範囲以外は確信がもてないのでそこは割愛する。

②広い邸内のどこに邸宅が建っていたのか

先述のように住所は音羽町3丁目19番地だが、地図を見ると邸内の広い範囲は雑司ヶ谷町だったとわかる。しかし住所を音羽町と登録していることから邸宅自体はその番地の範囲内に建っていたのだろう。

現在の地図と重ねてみると、まさしく現講談社ビルが建っている箇所に130年前は旧山田邸が建っていたのではないか。

③山田家遺族引っ越し後の邸内はどうなったのか

麻布へ引っ越したのはいつ?

『顕義伝』ではあっさりした記述だが、明治25年に顕義が亡くなった後、遺族はいつ頃麻布へ引っ越したのか。

『日本紳士録』によれば顕義の跡を継いだ久雄が当主のあいだ、明治29年発行の第三版までは音羽町が住所のままである。

久雄の跡を継いだ繁栄が当主で記載された第四版は翌明治30年12月の発行。内容は同年中の調べであるが住所は「麹町区中第六町」とある。
久雄が亡くなったのは同年4月であり、中第六町は繁栄の以前からの住所。第四版を調査していた段階では繁栄はまだ住所を移していなかったのだろうか、それとも山田寡婦らと同居に至っていなかったのだろうか。可能性はいくつか考えられるが、この情報では引っ越しの有無は判断できない。

住所が麻布笄町になっているのは次の第五版からである。
明治32年1月発行、前年調べの第五版からは当主繁栄、住所が麻布笄町になっている。以上のことから山田家遺族は明治30年の久雄死後から翌明治31年中に麻布へ引っ越したとわかる。

その後の邸内

見つけた中でもっとも年代の近い記述としては『穂積歌子日記』になる。

議事の後小石川区音羽旧山田邸地所の件相談あり。まづ見込多き場所の由なり。(明治38年11月30日)

『穂積歌子日記』P925

当時穂積家で土地購入を検討しており音羽の地所が候補に挙がったが、けっきょく購入には至らなかったようだ。
しかしこの記述によって少なくとも日記に書かれていた頃は空き地だったことがわかる。

次は先述の『東京市及接続郡部地籍台帳』『東京市及接続郡部地籍地図』
大正元年発行なのでつまり明治45年当時の様子がわかる。
これによると2万坪は細かく分譲され人手に渡っている。
「宅地」として登録されている場所もあるが「山林」や「畑」の範囲が多く、"岡邸樹林あり、山幽に地静かにして、花鳥風月の楽みあり"と形容された顕義在世中と大差ない様子だったのではないか。

④野間氏の手に渡るまでの洋館所有者

以下は「旧山田邸(洋館)が建っていたのは住所として登録されていた音羽町3丁目19番地である」を前提とする。そしてこれから述べる内容によりこの前提はほぼ事実と断定できる。

引き続き『東京市及接続郡部地籍台帳』『東京市及接続郡部地籍地図』によると音羽町3丁目19番地は佐藤光興という人物が所有者となっている。このことから野間氏の前の音羽邸所有者はこの佐藤氏だろう。ちなみに地目も「宅地」で登録されている。

野間清治氏の所有になる

そしてついに野間氏の手に渡ったのは大正10年のようだ。

講談社の年表によればこの時、野間氏は旧山田邸のみでなく同地6500坪も購入。旧山田邸は私邸として使われたが関東大震災で倒壊したため取り壊したという流れのようだ。

ちなみに以下の記事でも野間氏の前"音羽御殿"は"越後の豪農の手に移っていた"とあるので、やはり野間氏の前の邸宅所有者は佐藤氏で間違いないだろう。

講談社の社屋として利用を始めたのは昭和9年7月とある。

以上が『顕義伝』に書かれた空白を埋める内容となる。


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