厭世観と感情と五感の外
突如、「明日死んでも良いくらいな感じに、なんだか気分が落ち込んでいる」
と相方さんが夕食時に言ったのが、昨日。
おやおやどうした、と思ったけれども
意外に冷静なわたしは状況確認をした。
特にこれと言って劇的にショックな事があったわけでもないらしい。
まぁ疲れているのはもちろんあるが
それにしてもいきなりのアクセル全開maxディプレッスィングっぷり。
元重度うつ民だったわたしはその気持ちはとてもよく覚えている。
いわゆる厭世観と言うやつだな、と冷静に見てみた。
以前まではこんなネガティブなことを言われるとあたふたして、
わたしが何か元気づけてあげなければ!とか
何か追い詰めるようなことをしてしまったんだろうか!とか
罪悪感や自己犠牲や恐れを起点にした行動を起こしていたのだけれど
今回のわたしは違ったのだ。
ひとまず様子を観察し
状況を俯瞰し
厭世観に至るはっきりとした直接的原因の出来事があるかを確認し
ない場合は。
それは本当にあなたの感情なのか?と言うところを問うてみました。
感情って飛びます。
感情って落ちてします。
感情って漂ってます。
自分以外の誰かの感情をうっかり受け取ったり拾ったり当たったり
そんなことをしてしまう事があるのです。
で、そう言う時は大抵が
これと言って原因となる出来事がないのに
やたら悲しくなるとかしんどくなるとか全てが嫌になるとか。
例えば何か物凄い悲しいニュースが世の中を駆け巡ったりすると
たくさんの人がその悲しいニュースに共振し悲しい感情を覚えて
そこかしこに悲しい感情が漂うなんて事があります。
この場合は共有意識に引っ張られると言っても良いかもしれない。
で、うっかりそれに巻き込まれてしまう事がある。
すると意味もわからず悲しくなったりする。
そしてその原因が自分にあると思い込んだりする。
そうなるとさらに悲しく落ちてしまったりする。
感情って言うのはとてもパワフルで大きな影響力を持つのだけど
そのことについて意外と知られてないし、
そもそも感情は自分の内側にあるものと認識されているので
自分以外の誰かの感情をうっかり拾ったりして影響を受けるなんて
考えないわけだけど。
これを知っていると
原因がはっきりしないのにとにかく気分が落ち込む時には
「あー、誰かの感情に影響を受けてしまってるっぽいな」と自覚できる。
自覚できるだけでだいぶ巻き込まれなくて済む。
普段はわたしの胸の内だけで処理するこれらの情報を
今回は相方さんにも言ってみた。
「それはあなたの感情じゃなくて、他の人の感情に共振してしまったのかもよ?」
するとその日の出来事に思いを色々巡らせてくれたようで
そう言えば近所の道を散歩した時に、ちょっと嫌な感じのする道を通った、と。
うん。それじゃね?
と言うことで、ひとまずもうそこは通らないようにすることと
こうやって話して原因がはっきりしたことで一気に気分が上がった模様。
それと、気分が無闇矢鱈に落ちてしまった時の、臨時イメージワークを伝えといた。
これもいつもはわたしが密かにやっているものだが
初めて相方さんに共有してみる。
一緒にやってみると、やはり気分はフッと上がった模様。
えがったえがった。
感情に良い悪いはないけど
やっぱり重い軽いはあって
できれば重い感情でずっといるのはしんどいから嫌な訳で。
しんどいと周りに当たりがちになるしね。
感情に振り回されると現実はうまくいかなくなるから
もっと自分の感情に敏感になって
落ちたら上がって
上がってたらそれをキープする方法を考えて
可能な限り機嫌良くいることを日々トライするのも
面白いと思う。
もうちょっと感情の扱い方とか
自分自身の感情の状態を俯瞰しながらコントロールすることとか
一般的になったらいいのになー
なんて思ったりしますが
感情ってエネルギーだし波動とも言えるし
胡散臭いから嫌がられるのかもな。
結局目に見えるもの、触れるもの、聞こえるもの、
五感の内に収まるものの方が信じられるし安心できる人の方が多いのも事実。
でもね、五感の外の世界はぶっ飛んでるけど
真理は全部そこにあるって
わたしは確信してるんだ。
だって「愛」って五感の外にあるものだもの。
この手のことは相方さんにも詳しく話せてないけど
相方さん以外となると、もはやほとんど話せていない。
キモがられるのが怖くてね。
ちなみに息子はバリバリ五感の外を使うタイプなので、言わばわたしの師匠だ。
この手の話題に関してはわたしは
変態的と言えるのかもしれない。
人間の大きな可能性は五感の外にあると
わたしは本気で信じている。
人生を変えるのは、五感の外の情報だ。
全てはここにあって、全てはどこにも何もないんだ。